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「うつ病体験記」―――rumioxyさん


 これまで、何人かの人にはメールで送ったものですが、何か参考になればと思い寄稿します。

 拙い文章ですが、お許しを。

 僕が始めて正式にうつ病(抑うつ症状)と医者からはっきりといわれたのは、5年半前のことです。でもそれは医者がはっきりと僕にそう診断したときで、実際はそのはるか前からそういったことは起きていました。

 僕は予備校時代に中学時代の親友から折伏され、晴れて大学に入って20歳になるのを待って入信しました。当時学会は前年に池田先生が会長勇退という衝撃的なことが起こり、聖教新聞には一切先生のことが出ないという異常な状態ではありましたが、温かい組織と素晴らしい先輩に恵まれ、嬉々として活動に励んでおりました。しかし、そのうち学会活動だけをやり、大学の講義に出なくなってしまうようになっていました。僕は理系を専攻していましたので、実験やら研究室やら、少なくとも大学に赴かないと卒業はできません。理由はいろいろとありましたが、ひとつの原因は自分を責めたことだったと、今では思うのです。大学の先輩は優秀な方たちが多かったので、学会も逆境の中活動でふらふらになりながら勉強に励み大学院に見事合格される人たちを多く見ており、それに比べ自分はなんと愚かしいという思いと、それがわかっているのになすすべもなくただ漫然と時が過ぎていくのを見ている不甲斐なさが連続していて、それでも明日から、明日からはと、まさに雪山の寒苦鳥を現じていたわけです。愚かなことですが、しかし、このときにすでにそれとは知らずにうつ病の症状が出ていたように思います。時たま襲い掛かる虚無感は尋常ではなく、何日も閉じこもり、寝たきり老人のようだと自分を蔑んでいました。いろんな逃げ道を探しましたが、どこも行き止まりです。それもそのはずで、自分がどこへ行きたいのかもわからないのですから。先輩に指導を受けようにもどう説明してよいのかわからず、結局題目をあげろといわれるのが落ちで、それはわかりきっているので、もうどうしようもなくなっていきます。ただそんな中でもほんの少しの光明を見つけ、何とか大学は7年かかりましたが卒業できました。「蒼蝿驥尾に附して(そうようきびにふして)」と御聖訓にもあるとおり、ご本尊様のお計らいとしか思えない体験でもありました。

 そして就職。大学のお世話になった、尊敬する教授からいくつかの会社を紹介していただき、その中のひとつであった、専門誌を発行している小さな出版社に仕事が決まり、希望を胸に社会へ飛び出していったのでした。はじめのうちは活動も仕事も何とか踏ん張っていたのですが、だんだん仕事が増え、一年が過ぎ二年目に入った頃、新しい雑誌を発行することになり、小さな会社でしたので、僕にその雑誌担当のお鉢が回ってきたのでした。隔月刊でしたが、取材、記事原稿、印刷手配、広告営業、校正などあらゆることが押し寄せてきた感じでした。はじめのうちはそれでも、こんなチャンスはない、やりきっていこうと頑張っていたのです。しかしそのうちに、土曜も日曜もなく挙句の果ては会社に泊まってまで仕事をするようになり、もちろん活動や会合に出ることなど出来ず、勤行もしなくなり、自分が何のために生きているんだろうと思うようになっていました。そして、ある日、ちょうど創刊号が発行されてから6ヶ月目、第3号の発送が終わった翌日から、僕の中の何かがぷっちんと切れ、2ヶ月余り誰とも連絡を取らず、一人でアパートに閉じこもったのでした。ちょうどボーナスが出たところで、少ないですが、アパートにいれば使うこともなく何とかすごせました。でも精神は病んでおり、今思うとよくあの時死なないでいられたなと思います。僕は誰にも相談できないでいましたが、なぜか先生はいつでも心の中にいました。この状況のふがいなさはあるものの、いつかは先生にお応えしたいと思っていました。だから死のうなどとは思わなかったんだと思います。ある日、近くのコンビニに飲み物かなんかを買いに出かけたとき、僕はついに会社の先輩に見つけられてしまいしました。いろいろありましたが、幸いにも年内で円満退職という形にするから、体がきついなら、年内は好きな時間に来るようにしたらどうか、と社長から提示していただき、ようやく僕は暗いトンネルに少し明かりを見出したのでした。出版界というところはかなり労働条件が厳しい会社が多いらしく、出版健保という保険組合に会社から紹介してもらったところ、すぐに来なさいということになり、そこで精神科の医者の簡単なカウンセリングを受けました。簡単ではありましたが、とてもきつい口調で、攻め立てられ、まるでいじめられているようでした。そして、不安症とか何とか(その医師がなんと言ったのかかなりショックがきつくてよく覚えていません)で、近い医院を紹介してもらいそこに数ヶ月通いました。小さなクリニックで、そこの医者は悪い感じはしなかったのですが、僕は本当のところを知りたくて毎回通っていたので、いつまでたってもこちらの話だけを聞き、ただ毎回薬を出す医者に業を煮やして、そのうちいかなくなりました。僕はその頃、実家に戻っていましたが、信心反対の家族の視線を感じながらも、再び活動を始めてました。その頃参議院選があり、F取りに燃え、唱題もあがり、自分を取り戻したいという思いで次に向かって戦いも順調に進んでいきました。選挙も後半の頃だったと思います。お世話になった学生部時代の先輩から突然電話がありました。用件はたいしたことではなかったのですが、現状を聞かれ、仕事を探していることを告げると、「あるよ」と一言いい、「こんどこいよ」とこちらが返事をするかしないうちに決まってしまったのです。実はその会社はかなり大手の商社で、僕などはとても縁のない会社でした。それにあまり自信もありません。ただ、その先輩はしょっちゅう会っているわけでもないのに、フラーっとそばに来て、ひょいと背中を押してくれる、僕にとってはなんだか、とってもありがたい人でしたので、まあだめでもともとだよなと思い、面接に行ってみることにしました。そんな感じで次の仕事が2ヶ月たたないうちに決まってしまったのです。このときばかりは題目ってすごいと確信を持ちました。

 僕の病気は自分の弱いところに出ます。やがて新しい職場に慣れてくると、だんだん学会活動が億劫になってきました。このまま行くと、また仕事も手につかなくなるぞという不安に襲われ、仕事を理由に活動からはなれて行きました。そのうち、その地域にいるのがいやになり、神奈川県のある町に部屋を借り、逃げるように出て行ったのです。その年の暮れだったでしょうか、先生が宗門から破門通告をされたことを知ったのは。たまたま連絡を取った学生部時代の友人にそのことを聞かされ、近くにあった聖教新聞の販売店に行き、再び活動を開始したのです。それから2年ほど、男子部の活動、創価班、広宣部と、戦いました。ほとんど睡眠がとれず、昼休み食事中に眠ってしまうこともありました。

 本格的にうつ病の症状が再び襲ってきたのはその後です。初めは軽いだるさからでした。その頃、それまでがあまりにも調子がよかったため、なぜか以前のあのいやな感覚を忘れていて、栄養ドリンクなんかを飲んで、ごまかしていました。が、次第に強くなる虚脱感がまたもや活動から、そしてご本尊から僕を離れさせました。僕はほとんど逃げるような按配で、会社のサークルの山岳部に入部しました。以前から山登りがしたいと思っていたので、ちょうどよく気晴らしが出来ました。山登りは僕にあっていたらしく、仲間とも気が合い、ある期間は楽しく過ごせました。しかし、それもあまり長くは続かず、昼に夜に襲ってくる段になり、やっと「あ、これはちょっとまずいかな」と思うようになったところで、通勤途中に目にしていた神経科医院に足を向けました。後から知ったことですが、そこの医師はわりと名の通った方だったようです。しかし何度か通院しましたが、いったい自分がどんな病気なのか、どうすればよくなるのか、あるいはどういう状況なのかすら、言ってくれず、漢方薬らしいのですが、怪しげな(とその当時僕は思ってしまいました)粉薬を処方するだけだったため、今度は住まいの近くに医者を探しました。次のところでは、「これはちょっと会社を休む必要がありますね」と診断書を書いてくれ、どのくらい休めばよいのかたずねると、2ヶ月ぐらいといわれたので、上司にその旨伝えると「完全に治せ」と3ヶ月の休職を許可してもらいました。その時点での僕は、自分で言うのもおかしいですが、まるで別人でした。ただただ呆然として日々を過ごしました。テレビをつけていてもほとんど見ていない感じで世界が自分とは違うところで回っているような錯覚。ただとりあえず、正式な方法で会社がきちんと認めて休んでいることがせめてもの救いでした。前のような卑怯な形ではないことは少し心をひとつの方向、この病気を治すという方向に向かわせることが出来ました。しかし重苦しさと虚脱感は一向によくなりません。ひとつこのときに気がついたのは、僕はかかりつけの医者があまり好きではなかったのです。いやな人というのではなく、相性が合わなかったのでしょうね。で、1ヶ月ほどして、友達にある大学病院の精神科が定評があるときいて、すぐにその医者に紹介状を書いてもらって、その大学病院に行きました。そこで担当医になった医師はほとんど僕と年齢が換わらないぐらい若い人でしたが、始めて「あなたはうつ病です」と言ってくれたのです。そしてうつ病の仕組みをわかりやすく説明してくれ、うつ病は脳の中の物質の問題だから薬で治すことが可能だといってくれました。このとき初めて自分の病気が何なのかがはっきりしたのでした。ただ、薬の種類と量をひとつずつ試していかなければならないから時間はかかるといわれました。でも僕にしてみればようやく真っ暗闇の中に小さいけれども目標が見出せたのです。それが脳の中で何らかの反応が起きたのか(薬があったとはいえません。それは後でわかりますが)、2ヵ月後に会社に復帰しました。だいぶよくなったと思えていましたが、医師は会社に行きながらも定期的に通院するよう勧められ、そのとおりにしました。そしてそれから4ヶ月たたないうちに再びうつの世界に引きずり込まれ、再度休職を余儀なくされたのです。上司はかなり心配してくれ、社会保険が利く期間すべて休めといってくれました。そして僕は長い休みに入ったのです。この間本当にいろんなことがありました。本当に自分だけの時間しかないので、好きな山に行ってみようかとも思いましたが、友人に誘われて数回行っただけでした。合わない薬の副作用で、顔はむくみ、それを自覚しているからなおさら外に出たくなくなります。ごくたまに気分のいいときに気を使って付き合ってくれる友人たちに合う以外は家で何にもせずごろごろしていました。昼夜が逆転し、昼間は浅い眠りを食事を挟みながら繰り返し、夜になると妙に元気になったりもしました。男子部の仲間たちが時折心配してきてもくれましたが、彼らの元気よさは返って気をめいらせたこともありました。それでも、そのときはいやだなと思っても時間がたってみると、あの時ちゃんと縁を作ってくれたのだとただただ感謝の気持ちでいっぱいになります。

 ひとつだけ、僕にとって比較的短いスタンスで訪れる楽しみがありました。それは当時好きだった女性に会えることでした。彼女は山の仲間の一人でした。最初に2ヶ月休んで会社に復帰し始めた頃から二人であうようになり、彼女は僕の副作用でむくんだ顔にもいやな顔ひとつせず、ほぼ月に一度食事に付き合ってくれたのでした。彼女はごく普通の当然の行為として振舞っていたようですが、そのことが僕にとっても安心を与えたのだと思います。

 さて、ようやく話が終わりに近づいてきました。いや、ようやく本題に入れるといったほうがいいかもしれません。ただ、これは誰にでも当てはまるものではないかもしれません。僕にもこれはどうしたことか説明など出来ない。結論は最後に記しましょう。

 まず、僕がある意味で究極のどん底でもがいている頃、学生部時代の親友で、一緒に住んだこともある友人が憧れの女子部と結婚をすることになったのです。もちろん彼は僕がこういう状況であることは承知の上で、招待してくれました。僕としては状況が状況だけに、行かなきゃという義務感のほうが先行して、行きたくないという気持ちは抑えたものの、ぜひ出席して祝辞をという前向きな気持ちは、彼に対して本当に申し訳ないのですが、あまりなかったというのが正直なところでした。結局、暗く沈んだ、あきらかに尋常ではない相で、僕は出席しました。それはそれで目立たずに、祝福している一員として、多くの中に紛れ込んでいればいいのですから。しかし披露宴会場に着いてから思いもよらないとんでもないことに気づきました。実は、彼の小学校時代からの友人で、十年以上前、僕が恋愛感情を持っていた女性を横から現れて持っていってしまった男が名簿に載っていたのでした。当然といえば当然です。友人なのですから。でも、その脇に見覚えのある名前が。彼女の名前でした。すっかり忘れていた名前だったのに、こんなところで遭遇してしまうとは。足元が崩れないように立っているのが精一杯という状態でした。逃げ出したくてたまらない心境でした。相対的幸福というものにこれほど打ちのめされたことはありません。いったいどんな顔をしていればいいのでしょう。

 僕は今これを打ち込んでいて、本当にくだらないことを書いてるなと思ってしまいます。読まれている方もどうだっていいじゃないと思われているかもしれません。しかし、僕にとってのきっかけはここにあったとしか言いようがないのです。

 僕にとっての最悪の披露宴が始まり、それでも何事もなく滞りなく終了したその直後僕はとうとう彼女と再会したのです。惨めな自分をさらけ出すまいと僕は必死に意地を張りながら、近況などを早口で話しました。もちろんうつ病のことは話せません。ものすごく惨めな思いでした。なんだか自分が本当にみすぼらしい張りぼてのように思えたりしました。僕は結婚した友人との約束を果たしたものの、本当に疲れ果てて家に帰りました。

 こういうのも福運というのだと思いますが、あまりにも激しく打ちのめされたためか、あるいは完璧な自分の現在の姿を見せ付けられたためか、僕はあることに気づき始めたのです。自分とはなんていい加減なんだろうと。勝手に惨めだと思っている。そう思い込んでいる。本当に俺は惨めなのか?そりゃ見た目はぱっとしないけど、しっかり目標を持って前に足を進めているじゃないか。人と比べたら遅いかもしれないが、自分は他人の人生を歩いているんじゃなくて、自分の人生を歩いているんじゃないか。ならば胸を張って生きよう。なんだかちっぽけな石につまづいてたなあと。僕は開き直ったのでした。すると、なんだかスーッと力が抜けて楽になりました。でもこれは、まさに仏法で説かれていることであり、池田先生が常におっしゃっていることなんですよね。

 そのご、僕はこの病気を受け入れることが出来ました。ようやく、合う薬が見つかり、仕事にも復帰できました。前述の好きだった女性が結婚してしまったり、さらにこの不況のあおりで、リストラにもあったりと、踏んだりけったりでしたが、それも乗り越え、今はホームヘルパーの仕事をしています。仕事は力仕事で、車を運転したり人と接するので、生命力も要ります。題目はかかせません。とはいえ、時々またあのいやな感じはあるんです。薬は飲まなくなっていますが、不安になることがあります。そんなときはしょうがないなと、横になって何にもしないようにしてます。ようは抵抗しようとせず、受け入れてしまうのがいいのかなというのが僕の実感です。

 うつ病の人の多くは、こうであらねばならないと、決め付けて自分を枠にはめようとしているところがあるのではないでしょうか。それを取り払うことが出来れば楽に慣れるのではないでしょうか。

 僕はおそらくまだ完全には取り払ってはいないと思いますが(実際そんな簡単にはいかないことですから)、でもコツはつかめたと思います。これは自分ひとりでつかめたものではなくて、少なくともいろんな人に縁することによってつかめた宝物のように思えます。それが実感で、すべての人に感謝しています。