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「信仰とうつ病」―――あきさん 私が治療を受けた心療内科の先生は、オボ先生と言って、ドクター部の先生です。 体験記の方にはあえて書いていませんが、仏法的な視点を絡めたお話もたくさんしていただきました。 まず、言われたことは、自分を嫌いといって責めると言うことは、 自分という仏に対する謗法であるということでした。 そして、このままの自分ではいけない、もっと頑張らなければいけないと必要以上に今の自分を否定してあおりたてることは、それ自体が魔の所為であり、そういう信心は魔に魅入られた信心である、そういわれました。 この「魔に魅入られた信心」という考え方には、目からうろこが落ちるような思いでした。 確かに私は昔から自分のことが大嫌いで、だらしなくしていることが許せなくて、そして、人から「すごい」と言われたくて、自分の状態とはうらはらの決意ばかりをおおきく掲げてはがむしゃらに走ってきました。家庭状況が大変なときにはそのことで周囲の人間から失笑を買うことが許せなくて、「やっぱりあそこの家の子だから・・・」といわれるようなことはしたくないという気持ちで、グレることもできませんでした。むしろ学校でも家庭でも飛び抜けて優等生であろうとし続けました。これははっきり言ってそうとうしんどい生き方です。そしてそんな私は友人から見れば、さぞかしかわいげのないヤツだったことでしょう。 今回の発病の時にも、どんどん無気力になり、現状から逃げ出したくなる一方で、そんな自分が許せなくて、人に言われるままに新聞啓蒙をいきなり10部やってみたり、(一日で8部というだいそれたことをしてしまいました)10時間唱題を突然はじめたり・・・しかし、そうして得た物は極度のウツだったのです。 悩んだときこそ唱題。普通はそれが正しいのですが、ことうつ病に関して言えば、それがすべてとは言い切れない部分があります。 先生からの受け売りですが、うつ病というのは自分を責め続ける病気です。一方唱題というのは自分という仏に対する最大の賛嘆です。これを同時に行うと言うことは頭をなでて、「かわいいね」「えらいね」「立派ね」とほめちぎりながら、足でぼんぼんと蹴飛ばしているようなものです。精神的に混乱しないわけがありません。 極度のうつ状態になってから数カ月間、私は勤行をすることも題目をあげることも出来なくなりました。仏壇の前に座ると涙が止まらなくなるのです。声も出せなくなりました。 その状況を先生にお話ししたところ、「口ではほめられながら蹴飛ばされたのでは涙が出て当たり前だよ。今は無理に勤行・唱題をしないほうがいい」といわれました。「やりたくないのに無理にやるのは信心ではないんだよ」ともいわれました。 ある人は、ウツでやりたくないからこそ唱題をやらなければと無理矢理題目をあげたという話をしていましたが、私はそれはかなり危険な行動だと思います。うつ病は無理を重ねると症状的に一段階重くなり、躁鬱病になることがあります。躁状態になってしまうと、自分が病気であるという自覚すら起きなくなります。躁と鬱を周期的に繰り返します。そうなると、治療には大変時間がかかりますし、周囲にもウツだけの時の何倍も負担をかけることになります。 信心をしているのに、うつ病にかかってしまう、 ということについて、私自身かなり悩みました。罰か?宿業か?一体何なのか?と。 オボ先生の所に言ってみると、学会員の方もたくさんいました。最初はますます不思議な気分でしたが、上のような話を聞いてからと言うもの、納得できました。 信心と言うことに対しての、ちょっとした落とし穴なのかも知れません。 もちろん、その人の宿業とか、そういうこともからんでくるのでしょうが、信心をしていても、心を病むと言うことは誰にでもあり得ることなのだと言うことを皆さんにも分かって欲しいと思います。 精神病と言うだけで、日本ではまだまだ根強い偏見があります。しかし、他の項目でも何度も書きましたように、精神病というのは心と言っても、脳という一つの内蔵の病気であって、なにも特別な病気ではありません。大きなストレスを受け続ければ誰でもかかる可能性のある病気なのです。 地区や組織でうつ病ではないかという人を見かけたらぜひ、この話を思い出して、絶対に過度な激励をせずに、お題目を送ってあげて下さい。見守ってあげて下さい。会合にも出るのが嫌そうなときには無理に誘わないで下さい。一緒に題目をあげようと言うのもやめた方がいいと思います。うつ病の人に必要なのは題目を自分が無理をしてあげることよりもまず、自分を責めることをやめる、ということです。自分の仏性への謗法をまずやめさせることです。「私は自分が大好きです」と声に出して言うということは、自分は仏だと言うことを自覚するための練習です。その時に自分の中からわき起こってくる抵抗したい気分というのが、「魔」そのものなのです。つねに「自分が大好きです」と自分に言い聞かせるのは、そのまま魔との闘いなのです。 うつの治療という点で、わたしなりに編み出した、治療法とでもいいましょうか、我流ではありますが、ひとつ紹介します。これも、学会員ならではの方法ではありますが、 うつ病ということをまずそのまま受け入れて、同じうつ病に苦しむ人の心を癒してあげられるようなメッセージを送る、そして人のために祈ることです。 勤行も唱題もできなくなった私が唯一できたのは、不思議にも人のために祈ると言うことでした。 自分のことは祈れませんが、人のことは祈れるのです。ですから、自分のことはその時は考えないようにして、人のことを祈ろうと決めました。 最初は友人の名前を思いつくままに書き出して御祈念板を作り、出来るときに一人に一回ずつの題目を送りました。題目などと言うようなものにはなりませんが、とにかく一人一人思い出しては南無妙法蓮華経と言いました。それが少しずつ、連続して言えるようになり、毎日出来るようになり、一人一回が、三回に増え、1分に増え、3分に増え・・・もちろん順調にいくわけではありません。辛くてそれどころではないときもあります。その時には無理はしない、出来るときにする(したいときにする、ではありません。)、そういうスタイルで人のために祈ることにしたのです。 そして、同じうつ病の人に自分の経験を話したり、一緒に治していこうねと話をしました。グループセラピーのような効果でしょうか。やはり、うつ病患者の気持ちはうつ病患者が一番良く分かりますから、同感できる部分から第三者にアドバイスすると言うことは、自分を見つめ治すことにもなったように思いますし、悪く言えば傷の舐めあいかもしれませんが、それはウツの時にはとても大切なことのように感じました。「苦しいのは私ひとりだけじゃない」と思えるだけでも救われるような気分でした。 今でも私は決してうつ病が完治したわけではありません。今の所はもう病院にも通っていませんし、薬も飲んでいませんが、それでも時折「やばいな」と思うようなときはあります。勤行もままならない時もあります。 それでも通院せずに、薬も飲まずにいられるのは、自分のうつのコントロール法を知ったからだと思います。もちろんもっとひどい波が来るようならその時にはまた通院の必要は出てきますが、 それでも昨年のように極度のウツになったあげく、周囲の人にさんざん迷惑をかけて、引っかき回して・・・というような失態はしないですむような気がします。なぜなら今、私は自分が大好きですから。 そして、最後に、うつ病を抱えている学会員の方へ・・・ うつ病の苦しさはうつ病にかかった人にしか分かりません。 そんなうつ病に自分がかかった、ということを自分の使命だと感じて下さい。題目も勤行も思い通りにあげられないかも知れないし、会合にも出られないかも知れないけれど、たとえうずくまったまま気がついたら夕方だったと言うような一日を過ごしたとしても、泣いているだけの一日だったとしても、一日生きていた、そのことがあなたの一日の勝利です。うずくまってウツの波をこらえることも、立派な闘いです。薬を飲んでこんこんと何もせずに眠ることも今のあなたの闘いです。 そうして少しづつ力を取り戻して、ウツの波を上手に乗りこなせるようになったときに、必ずあなたにしかできない、新しい闘いが見えてくるはずです。 あなたは大きな使命を頂いた、大切な人材なのです。そのことを忘れないで下さい。ウツという業病に苦しむ人々を救っていくという崇高な使命を持った仏なのです。 一緒に乗り切りましょう。闘いましょう。苦しいときは、死にたいときは、ここの管理人にメールを下さい。 私は、いつでもあなたのそばにいますから。そして、あなたのそばには必ず池田先生も、地区の方もいます。みんないます。あなたは一人ではありません。どうか、そのことを思い出して下さい。 焦らずにじっくり治していきましょう。そして幸せになりましょう。(^^) |
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