[527] 川を渡る 投稿者:vol de nuit 投稿日:2006/03/06(Mon) 00:02:31

お通夜にいってきた
友人葬だった
が、読経者の数はわずか
みな、うつむいていた
棺のまえで、故人の兄、母が、法華経を聞きながら泣いていた。

故人の人生を思った
中卒で都会に出ていた
都会で酒とタバコを一人でふかし
日々を送っていた

やっと職業生活を終え
ふるさとに帰ってきた
一人身だった
生家の近くに家を建て
自分を思ってくれる身内との心安らぐ日々

しかし
あまりにも死は突然だった
家の中で壁にもたれかかり
天に目を見開き・・・・・一人、旅立っていた。

悲しさでいっぱいだ
寂しさで涙があふれる

よちよち歩きをしていたおまえが
どうしてもう行ってしまったのか
私のおなかから元気にうまれて
もう旅立ったのか

もう、三途の川は渡ったか?
ぬれてるだろう・・・疲れたろう・・・
一人でほんとに辛かったろう・・・

十分苦しんだんだ
休むがいいよ

いまごろどうしてるかい?
三途の川のほとりで
夜空をひとりあおいで
にっこり笑っているかい?

流れをながめ
川の向こうにいたころとおなじように
静かに、タバコをふかし
飲んでるかい?

おれらが行ったときはかならず待っててくれ
お前は一人で、しかも歩いて川をわたった
しかし、おれらは知ったよ
もっといい方法を

それが何かは、きょうお前の聞いたものの中にある
寒い川を渡ってるとき、かすかに聞いたはずだ
おれらが行くときも、聞くはずだ・・その声を
聞き逃さないでくれ。ついたら一緒に、ほとりでたたずんで
タバコをすい、いい酒をのもう


[526] ホームヘルパー2級編 最終偏    投稿者:マウス 投稿日:2006/02/06(Mon) 15:47:17

 一月の主な実習内容
(1)排泄の介助 注意点 羞恥心への配慮、気くばり
(2)口腔ケア ある程度の力で、歯を磨いてあげる。でも、力加減がよくわからない。
(3)在宅訪問の実習 教室を改造?訪問する家庭のように机を移動し並び変えただけ。(^。^;) 入室する時の挨拶から、介護までを学ぶ
(3)残りの実習 施設訪問 2箇所 在宅訪問(ホームヘルパーさん同行)が、まだ残っている。

終了証書が、発行されるのは2月末になる、にもかかわらず就業ガイダンスが2月10日に行われる。
T病院の就業ガイダンスがある。履歴書、職歴を持参とのこと
早くも就業が、決まるのかな?(少し不安だなあ)

(5)志望の動機
 以前、長時間残業による過労で、退職に至ったため。就業時間は、8時間以内と決まっている。福祉系では、リストラはない?など。。。

 (6)「根深ければ枝繁の法則」宗教的次元で、求心力を深め持続する為。


[524] 紙切れがお好き 投稿者:vol de nuit 投稿日:2006/01/25(Wed) 01:33:18

ある強気な男がいました
マスコミにもてはやされ
若者のあこがれになり
やることすべてが注目の的になりました

その男が大好きなものは
お金と「はいとう」という金のなる「紙切れ」
毎日、お金とその紙切れを崇拝し
それさえあれば、何でもできるとおもっていました

彼いわく
それがあれば物はなんでも買えます
物だけじゃない 会社も球団も政治の世界も
人のこころも

しかし、それとはうらはらに
その男がいつも案じてることがありました
それは、自分が持ってる紙切れを
いかにしておおきくするか

目標はいたって簡単
紙切れで世界一になるぞ!世界一の紙切れをつくるぞ!
紙切れがでっかすぎてかってくれない?
そんなもん、簡単じゃないか。小さくちぎって売ればよい!
プロの「紙切れ鑑定士」が信じてくれません
適当なこと言って、だませばいいんだよ!

みんながかってくれました
どんどんどんどんかってくれました
どんどんどんどん紙切れは値上がりしました
ご満悦なお顔で「わしの夢もちかいぞよ」

しかし、肝心の「はいとう」のことをまったくかんがえていませんでした
その男も、紙切れを買うほうも
「はいとう」は、自分の実力
紙切れは周りの評判
その男は、「はいとう」という実よりも
すのはいった大根のようにでっかいものがすきだったみたいです

自分の体力をつけるよりも
紙切れのでっかさを誇る姿は
小学生が新聞紙や模造紙でどれだけでっかい紙飛行機を
作るのかを競争してるようにもみえました
それが、目の前で落ちるものだったとしても

そしてある日、紙切れは急に小さくなりはじめました
本人は、「そーてーがい」だといいました
実のならない紙切れが大好きだった人たちも
紙飛行機にして飛ばしてしまいました
(そうすると、いいみたいですね。ただ、紙飛行機が飛ばせない人もいるみたい・・・かわいそう)

自分よりも世間がすきだったその男は
どんどんちいさくなりました
紙切れの大きさがちいさくなるのとおなじわりあいで
その男もちいさくなりました

その男がどうなるか
頭のよくないぼくにはわかりません
ただ最近のでは、その男は豪邸から3畳の住まいに移り
ごちそうが麦飯になったということです


[523] my way, my dream. 投稿者:vol de nuit 投稿日:2005/12/24(Sat) 22:03:20

 私の道、私の夢

 クリスマスイヴの雪原を歩く
 夜に降る粉雪
 遠くから聞こえる恋人たちのたのしい声
 家の窓からの暖かいともしび

 たのしい
 自由
 やすらぎ
 静寂

 すべての人が
 たのしくあってほしい
 平和のうちに
 いきてほしい

 とおいさびしい日暮れの道のむこうに
 雪のふる夜道の果てに
 たのしさ、自由、やすらぎ、静寂が
 みえるだろうか

 サンタの存在を信じた幼い日に
 枕元に靴下を置いて眠りに就き
 暖炉の中の火に安らいだあの懐かしいころにみた夢を
 いま想いだす

 ぼくは大きくなったらどうなるのでしょうか?
 この自然に抱かれた田舎で平和にすごすのでしょうか?
 見知らぬ土地に行かなくてはいけないのでしょうか?
 どんな人に出会うのでしょうか?

 翌朝、目が覚めた
 靴下の中には・・・・
 ・・・・・・・・・
 何も入ってなかった

 次の年、また次の年
 枕元に置いた靴下
 朝起きて中を見た
 なにも入ってなかった

 わたしはあたらしいゆめをみはじめた
 サンタをさがそう
 まわりのだれかがそうなのでは
 見知らぬひとのなかにいるのでは

 サンタをさがすために、呪文のような言語をおぼえた
 赤茶色の土地、緑の森にいった
 村の老人の昔話をきいた
 壁を倒した頭にしみのある老兵
 バスの席を立たず、こわいおまわりさんに逮捕された人の話をきいた

 心の中のこどもが感動に打ち震えた
 とおいさびしい日暮れの道のむこうから鐘の音が聞こえてきた
 暖炉に安らぎを見た気弱なこどもが
 夜道の果てに光をみた

 サンタはイヴだけじゃない
 サンタは夜だけじゃない
 サンタは昼間もうごいてる
 サンタは年中たたかっている

 いまこのときも
 純粋なこどもたちは
 サンタの存在を信じて
 夢をみてるだろう、枕元に靴下を置きながら

 「サンタはいるよ
  いまは寒い夜をおくってるみんなも
  必ずサンタと会えるよ
  いなかったら、探しに行こう

  もしどうしても探せなかったら
  そのときは
  自分がサンタになろう
  闇に鐘をならし、荘厳な光で夜道をてらすサンタに」


[522] ホームヘルパー2級編 その3 投稿者:マウス 投稿日:2005/12/22(Thu) 21:36:19

(12/13)基本技術:療養環境の整え方 ベッドメイキング
ベッドにシーツを敷くだけなんだけど・・・・
しわが、できないようにシーツを敷かないといけない。これがまた、たいへんだあ。
なかなかうまく敷けない、(^。^;)要領よく出来ればいいなあと思う。
先生は、何事も経験することが大切ですよと言う。

 基本技術:高齢者の衣服について
 衣服の着脱・寝巻き(ゆかた)の交換
 これもまた、たいへんだあ。体位変換をうまく利用しないといけない。
 (先週、実習を行っているがもう忘れている。(^。^;)
 先生に指導してもらいながら行う。なんとかできるようになったなあ。
 でも、月日が経てば忘れてしまうかもしれない。
 学科レポート NO.4 不合格の為、(65点)再提出。やっと(70点)合格。
 テキストにも載っていない問題もあり、福祉法関係はどうもわかりづらいなあ。
 (来年四月より施行される「障害者自立支援法」の為、一部改正になる。)
 これも意外と大変だあ。 (^。^;)
 (不合格の時は、返信用の封筒が入っている為、大きな封筒で送られてくる)
 やっとレポートNO.1・・NO.4までの提出が合格で終わりひと安心。

(12/20) 基本技術 清潔 @ 手浴(しゅよく)足浴
     マッサージ師のようなこともする。きれいに洗って上げる。

    基本技術 清潔 A入浴介助 洗髪
    基本的な入浴介助のやり方を学ぶ。
    洗髪は、床屋さん見たいだなあ。(理容師の免許は、持ってないけど)
    実習の為の、小道具を準備する為に始める。
  これから、何が始まるのかと皆、深々と興味深く見守る。

 でも、ただ一人戸惑っている。うーーむ、うまいことできんなあ。(^。^;)
 先生が簡単にやってくれたあ。~(=^‥^A アセアセ・・・
 なんだあ・・・・  こんなことかあ。。。_(^^;)ツ アハハ

注意点 人権の尊重 (人それぞれ価値観が違う為)
何かする前に必ず「声かけ」をする。
後にも「大丈夫ですか」等、尋ねる。
たとえゴミのようなものであっても、自己判断せずに確認する。
特に金銭関係は、領収書などを分かるようにしておくこと。
(後で、問題になる場合もある為)
等。。いろいろあるなあ。
細心の注意が必要だあ。(^。^;)
 一つの教室は、普通20名となっているが、半分の10名。(良かったなあ)
 やっと、半分講習会が終わったなあ。来年、1月のみ。順調に進むなあ。


[521] ホームヘルパー2級編 その2 投稿者:マウス 投稿日:2005/12/06(Tue) 20:12:11

(12/6)「実技の実習」
今日の天気予報では、曇り後雪となっていた。
寒い朝を向かえ、学校に向かう。
少し曇っていた為、午後に実習する予定であった車いす(人が乗っています)での移動練習をすることになった。でも午後から晴れてきた。(^。^;)
都合の良いことにすぐ近くに、急な坂、砂利道もあった。車いすを押しての急な坂道の上り下りはたいへんだったあ。(^。^;)
午後から「ボデイメカニクス」を学ぶ。
(腰痛予防)目的は、頭や首の自然な動きを利用したり、手をのばしたり、足を使ったりして、最小限の力で最大限の効果を作り出すことです。
実技 6点を実習する。
「体位変換の介助」
@ 水平移動

A 頭部移動 (ビニール袋等使用)

B 仰臥位(ぎょうがい)・・・・側臥位に移動する。

C 側臥位・・・仰臥位に移動する。

D 仰臥位・・・端臥位に移動する。

E 端臥位・・・・車いすに移動する。

最初はこの講座をまともに受講できるかどうか少し不安であったが、3回目ということもあり少し慣れてきて、精神的負担は少なく、ただ運動不足のせいか少し疲れるだけ。
実技・実習のレポートも書かないといけないなあ。
たいへんだあ。~(=^‥^A アセアセ・・・


[520] ホームヘルパー2級編 その1 投稿者:マウス 投稿日:2005/11/30(Wed) 08:52:02

公明党の戦争容認問題云々、会社での人間関係の悪化等の為、
うつ状態になり1・・2週間(無断欠勤)で、寝込んでしまい
その結果、(自己都合)退職に至る。

精神科に通院しつつ、ハローワークに月2回行った。
精神的な負担が大きかったせいか、バイト等もせずに1年半が過ぎてしまった。

会社等は苦手になってしまった為、福祉の仕事を選択することにした。
ニチイ学館の「ホームヘルパー2級講座」を受講することに決める。

最初の2回は、福祉に関する知識の講習、(眠かったあ)
次回からは、実習に入る。

在宅学習で、レポートの提出が4回もある。100点満点で70点以上が合格。
3回提出して、合格。あと1回だけ。12月の中旬までに提出するかな。

福祉の理念は、仏教の精神に基づいていること。
「共感」という言葉を強調する。
次元は異なるが、「同苦」の精神に近いものを感ずる。
選択して良かったと考える。


[515] 落し物 投稿者:こう 投稿日:2005/07/10(Sun) 13:46:35

僕は急いでいた
大きくならなければならない
僕は焦っていた
時間はないのだ・・

僕は苦しんでいた
みんなについていかなければ
僕は必死だった
幸せになりたいから・・

僕は歩きながら
泣き出していたのだ
だって、
本当に淋しい僕だったから

急いで歩いていると
何かが落ちた。
立ち止まって探そうと思ったけれども
そんなことをすれば
置いていかれてしまう
だから僕は
何かを落としても
後ろも見ずに歩いたんだ・・

ずっと歩き続けて
数え切れないくらいの落し物をして
だけど、おかげで僕は随分大きくなった
僕は誰よりも強くなった
僕はもう泣かなかった
その必要はないからだ・・

世界は僕のもので
寂しい思いはもうしないはずだ。
世界中の人は
僕をあがめるだろう
僕はもう、悲しくないはずだ。

だけど
僕はある日、
随分高い視線で世界を見回して
哀しくなってきたんだ。
僕はまた
泣いてしまった。
だって、
落としたものが
あまりにも
素敵な宝物ばかりだったから・・

僕は
何をしに
大きくなったんだろう・・
何のために
大きくなりたかったのだろう・・

http://e-maiko.blog.ocn.ne.jp/story


[514] たまには…詩なんぞを・・・ 投稿者:風来坊 投稿日:2005/06/29(Wed) 15:13:21

どしゃぶりの雨音に混じって 車が水をはじく音__
店内にはラジオから流れる聞きなれたミュージシャンの歌声___

遠く沖縄・奄美の梅雨は
昨日 明けたと 気象庁が発表をしたばかり
四国では、日照りが続いていると
ネットのニュースが取上げている

こちらでは、雨足が遠のく気配もなく
この雨を、四国地方に 分けてあげたい 衝動に駆られてる

「飢饉疫病数多に溢れ、牛馬巷に倒れ」
あの鎌倉時代とおんなじ
人間のエゴに 業を煮やした諸天は いまはどこに?

されど、嘆くなかれ
翻すなかれ
一度決めた道は険しくも
一歩一歩と着実に歩んできたではないか
一歩一歩と進んできたではないの

彼方遠くに見える小さな光りも
一念に億合の心労をつくすならば
本来無作の三身 念〜々〜っに起こるはず

雨は尚も地面を濡らし 地球を冷やさんと 余念がない
自然とて頑張っているやない
人間がへこたれてたら 自然界に笑われるかもと
今 我が胸中に呼び掛けてみる
    ______ 雨の日に 風来坊 ______



[511] 私の履歴書N作業所編V 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/05/19(Thu) 22:48:45

暫くして、作業所は、神戸市の管轄から離れ、「社会福祉法人」として国の傘下になりました。

しかし、メンバーには何のメリットもありませんでした(▼▼〆)
交通費も飯代も出ません・・・(▼▼〆)
工賃も100円前後です。わざわざ交通費を実費で払っています・・・(――;
それでもお金が出るだけマシです。工賃も交通費も出ない作業所まであります(@_@)

数年前、関西国際文化センターで開催された「女性美の500年展」に作業所全員で参加したことがあります。当初、予定していた日になんと作業所に泥棒が入り、数万円の被害が出ました(@_@) まさに「魔」の出現ですね。後日、無事、作業所で「女性美の500年展」にレクリエーションとして参加できました\(^o^)/

また、作業所の先輩に入決が取れました―\(^o^)/
先輩は、はるばる遠くから、座談会や本幹同中に参加してくれています。
問題は、いつ御本遠流布するかです。タイミングを計らっているところです。

木工作業も、職人さんが入ったことから、プロの技術を教えてもらっています。
私は中学時代、美術と技術は得意だったので仕事事態は楽しいです。
問題は販路拡大して、工賃をUPする事が当面の夢です。

現在、私は両親の年金とわたしの障害年金(2級)で生活していますが、贅沢は一切出来なくなりました。でも私のお題目で、理想的な作業所になりつつあります。


[510] 私の履歴書M作業所編U 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/05/19(Thu) 05:10:08


小規模作業所「北むつみ会」は昭和55年に設立された、兵庫県で最も古い精神障害者専門の作業所です。私の主治医も作業所設立当初から関わっています。
北区から神戸に広がり、兵庫全県に広まりました。

メンバーの入れ替わりも激しく、設立当初から通所しているメンバーは現在たった二人です。最初は民家(元聖教新聞販売店)を借りて作業所にしていました。運営母体は家族で、市の援助も無かったようです。メンバーだけで会計などをやっていたそうです。

ところが、指導員を雇って、市の援助を受けるようになってから、色々と制約が出来てしました。しかも、阪神大震災の影響で、神戸市の財政は行き詰まってきました。まず、交通費がカットされました。

仕事内容も、単調な箱折りから、木工作業になりました。木工職人さんも来てくれています。2週間に一回、陶芸もしています。

一昨年、引越しをし、ビルの二階に移りました。
しかし、コンクリート剥き出しの作業所になかなか馴染めず、暫く(3ヶ月)ほど行きませんでした。でももう後戻りは出来ません。今は開き直って通所しています。

食事代も出なくなって、月一回のレクリエーションも実費になってしまいしました。なんかだんだん締め付けられているような気分です。それだけ景気がなかなか上向きしないからかなあー(――;

木工製品はなかなか売れず、ハーバーランドの「ふれあい工房」が頼りです。
http://www15.ocn.ne.jp/~fureai39/

工賃は売上から材料費を差し引き、メンバーの仕事量によって分割します。先月は、だいぶ弁当を頼んだので、工賃をもらっても赤字でした(;_;)

新しい作業所では、クッキーの製造・販売や、パソコンを使って名刺作りをしている所もあります。


[509] 心の中をのぞいて 投稿者:こも 投稿日:2005/05/17(Tue) 03:30:13

ぽつぽつ・・ぽつっ
ぽとぽとぽと・・ぽとっ
ざーっざーっざー
ざーざーざーざーざーーーー
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
どしゃぶりの雨_________
雨足強いね^^今度の雨は^^
たくさん、たくさん、降らしてしまえ
誰にも遠慮する事なく^^
思う存分、降らしてしまえ
雨雲が、全て消えてしまうまで^^
やがて、明るい暖かな太陽が______

また、あなたの心の中を、素敵に照らし出してくれるだろうから・・


[508] ひとりごと 投稿者:大道 投稿日:2005/05/03(Tue) 10:37:27

無条件で愛する人がいる
そんな恋があってもいいんじゃない

生い立ちや生活環境
性格とか病気など
それらいっさいがっさい切り離して・・

私はあなたにふさわしくないよと言ったね

でも、無条件で人を愛せるっていいと思わないかい?


[506] 私の履歴書L作業所編T 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/04/17(Sun) 05:40:44

阪神大震災の後、ある男子部の紹介で、世親障害者小規模作業所を紹介してもらいました。当時はまだ私は「精神障害者」ではなかったので、迷っていましたが、家でぶらぶらしているよりはいいと思い、保健所で簡単な面接を受け、1995年春から作業所の一員となりました。

最初は、箱折りの単純作業なので、退屈でした。香典返しのタオルや、文明堂のカステラなどの箱を作っていました。

『なんで、国立大学まで出てこんな事せなあかんねん!』という気持ちとプライドがあって最初は作業所を馬鹿にしていました。でもバイトは続かないし、他に行く所がないので、作業所へ通い始めました。障害年金や32条のことも先輩から教えてもらいました。早速32条の手続きを済まし、障害者手帳も申請し、世親障害3級になりました。

作業所は「超フレックスタイム」なので、いつ来ても、いつ帰ってもクビにはなりません。もう10年になるのに、私は未だに皆勤した月がありません(笑)嬉しいのは月一回、レクリエーションがあって、交通費と弁当が支給されて、会議で、行きたいところを決めて行っていました。また年に一度、北区の作業所全員での日帰りのバス旅行が楽しみでした。

作業所のメンバーは、結構高学歴な人も多いです。
現在では、同志社大学中退者や関学(関西学院大学)を出て銀行員として働いていた方もいらっしゃいます。聞いた話では、東大の医学部を出た人が昔来ていたそうです(@_@) 自宅に「○○経済研究所」などという看板を出していたそうです。もう亡くなられていましたが、死因がなんと「栄養失調」だったそうです(@_@)

最初は家族が運営の母体で、時給100円で、一日働いたら500円のボーナスが支給されていました。つまり一日皆勤したら800円、半年に一度ボーナス(3000円程度)が貰えたんです。しかし、震災の影響と、指導員の給料のために神戸市は財政難で、社会福祉法人(国)になると、徐々に給料が減っていき、ボーナスも交通費も無くなりました。特に交通費をカットされた事(神戸市北区は交通費が異常に高いんです)は痛かったです。(;_;)だいぶ辞めた人がいます。

社会福祉法人への移行については後日また書きます。


[504] 私の履歴書K阪神淡路大震災編(編集版) 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/04/14(Thu) 14:36:31

[500]投稿日:2005/04/10(Sun) 22:00:47
 その後も、色々バイトをしましたが、家庭教師以外はどれも続きませんでした。

そんな時、平成7年1月17日未明、あの忌まわしい阪神・淡路大震災が起きました。初めて激しい縦揺れを経験し、すぐに飛び起きて、気がつくと仏壇の倒壊を必死で抑えていました。我が家は幸い、六甲山に守られて、比較的少ない被害で済みました。それでも、本棚は全部倒れ、電気温水器が壊れて水が出っ放しになり、さらに表の道路がひび割れして、ガス管が破れてあちこちガスが漏れていました。我が家(北区)の震度は5強か6弱だったと思います。地区部長(当時)が学会員さんの各家庭を回って安否を確認していました

暫くして電気が復旧すると、テレビで三ノ宮が大変な事になっているのが分りました。 (@_@) 実際自分の目で三ノ宮を歩くとビルがあちこちで傾いたり、倒壊していて、平衡感覚がおかしくなりました。(@_@)また、長田区では火災が発生していました。聞いた話では、学会の長田文化会館の手前で風向きが変わり、火災から免れたそうです。

灘区の親戚の家の母屋は木造モルタルで、祖母が住んでいましたが無事でした。
祖母は関東大震災も経験しています。

母屋は半壊で、離れのプレハブは大丈夫でした。母屋は外壁や内壁、屋根のかわらが落ちて水も電気もガスも止まっていました。離れの親戚宅では、近所の川から水を汲んでいました。従兄弟(いとこ)と弟とで一日かけて母屋の屋根にシートをかぶせました。従兄弟一家は週に数日風呂に入りに来ていました。

父は仕事へいくため、一週間後、交通が寸断している神戸を離れて、奈良の簡保保養所から大阪まで通勤していました。

学生部時代の後輩が長田区に住んでいたので、長田文化会館をはじめ、あちこちの避難所を探しましたが、何処にもいません。てっきり死んだのではないかと思い、男子部の先輩宅で、飲みながら泣いていました。(;_;)

数ヵ月後、後輩が加古川に避難していたことが分って安心しました。(;^_^A アセアセ


[499] みんな希望の人 投稿者:喜田清次@支援センター 投稿日:2005/04/09(Sat) 17:08:51

いろいろな悲しみは 希望へとかわる
人ってひとりじゃないよ
温かい人はたくさんいる
喜び悲しみの中には
きっと希望あふるる世の中があると
人は生きれる
ありがとう
希望の人よ


[496] L'enfant de la terre-大地の子 投稿者:vol de nuit 投稿日:2005/03/26(Sat) 23:58:15

大地の子

 むかし、中国に幼い兄妹がいました。父母は、日本から開墾で入ってました。
 幼いかれらは、いつも近所に住んでたロシア人の女の子とあそんでました。

 それぞれの家の仕事を手伝いながら、暇を見つけては、野に出て遊びました。
 地平線に沈む太陽を眺めながら、他愛ない話を、それぞれの言葉で語りました。

 しかし、ある日突然、なにがなんだか分からずに、親が急に日本に帰ると言い出しました。話は急で、とにかくとにかくという話。兄妹は、ロシア人の女の子を無言でみつめ、最後にいいました。「ダ・スヴィダーニェ」、「またね」。碧眼の瞳に涙。

 日本に帰っての新しい生活。そのなかで、兄妹との間ではこっそり隠語がつかわれてました。碧眼の女の子の言葉が。

 ロシア人の女の子も、目の色の違う子供が話してた言葉をわすれませんでした。

 50年後。3人とも功なり名をとげ、結婚し、家族がありました。しかし、忘れられない思い出をもって、不思議と、同じ日の同じ時刻、同じ場所に集いました。

 茫漠とした雪の荒野。降る雪。いてつく大地。そして、、、天が割れたかのように地平線のかなたにふりそそぐ一条の光。

 眼光鋭い壮年と、やさしいまなざし、吸い込まれそうな碧眼、それぞれに反射される光。

 雪をとかすこぼれる涙。慟哭。そして、、、、、仏・神は、どこにいるんですか?

 たどりついた河の上の橋の上から夕日をみました。河のなかに、ぽたり、ぽたりと涙がおちました。

 雪のふる夕暮れに流れていく河。このさきは、いまなお有刺鉄線の張られている国境の河につながってます。

 一条の光にむかって、鋭い眼光、やさしいまなざし、吸い込まれそうな碧眼がいのりました。

 「おねがいです、わたくしたちの幼い命からでたなみだが、この雪をとかしてくれますように。」

 その後、再会を約し、それぞれの居場所にかえりました。

 闇の帳。

 願わくば、3人の幼い大地の子供たち、3人の祈りが、光や人の心のぬくもりに響きますように。すべての人の心のぬくもりに火がともりますように。そして、その火が雪をいつの日か溶かし、緑の春が永遠とつづきますように。

vol de nuit


[494] 栄光の第522野砲大隊 投稿者:大林 茂樹 投稿日:2005/03/06(Sun) 10:44:29

 第2次大戦末期、地獄のヨーロッパ戦線の中に稀有のヒューマンドラマがありました。

 大戦直後の1940年、リトアニア駐在の杉原千畝総領事のユダヤ人難民数千人を「命のビザ」の発給で救ったヒューマンドラマは有名ですが、その続編として、アメリカ陸軍第522野砲大隊があったのです。

 この栄光の第522野砲大隊は、二世部隊でした。彼らの家族は、敵国日本人を先祖とする為、全家族が収容所に入れられていました。

 その家族達の名誉回復の為、彼らは祖国アメリカに忠誠を誓いヨーロッパ戦線に送られたのです。

 特に、この栄光の第522野砲大隊は、正確な砲撃とたぐいまれな展開力で、独仏国境地帯のドイツ軍部隊に回復の機会を失わせ連合軍の勝利に大きく寄与した部隊としてアメリカ軍史に記録されています。

 だが、それよりも大切なことは、リトアニア系ユダヤ人を数万人も収容していたダッハウのユダヤ人強制収容所を解放し、世界にはじめてホロコーストの真実を知らせた生き証人であり、多くの瀕死のユダヤ人収容者を適切に看護して蘇生させた栄光の部隊だったことです。

これから、このヒューマンドラマを語りたいと思います。

(1)「新たなる悲劇」
 1944年の12月初旬、ヨーロッパ戦線では、ドイツ軍が敗走につぐ敗走を重ね、追いすがる連合軍は、ついにフランス領からドイツ軍の主力部隊を駆逐しました。

 勝利につぐ勝利は、士気が緩みだすという落とし穴にはまってしまいます。

「今度のクリスマスまでに、ドイツは降伏するさ、そうなりゃ俺達はめでたく凱旋帰国さ」と兵士たちは、公然と語りだしていたのです。

 しかしドイツ軍は、敗残兵を収容し、部隊を再編成し直し、新しい大型タイガー戦車を中心とした機甲師団を待機させ、反撃の機会を窺っていました。

 このころの二世部隊の第522野砲大隊は、イタリア戦線で大勝利し、「よく働いてくれた彼らを、そのまま凱旋帰国させよう」と、総司令官のアイゼンハワー将軍は考えていたと言われています。

それほどの働きでした。

 とにかく戦死者と戦傷者は、大隊のほぼ30%に達していた部隊そのものが満身創痍の状況だったのです。

 しかし、1944年12月16日、午前5時30分、総兵力25万、大型タイガー戦車1,000両、野砲1900門、ハインケル戦闘爆撃機、メッサーシュミット戦闘機、総計350機、からなるドイツ軍は、霧の濃い独仏国境地帯アルデンヌの森の静けさを破り、突入して来ました。


続きます。


[491] 私の履歴書J折伏編 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/16(Wed) 21:21:21

宅急便配送センターのバイトは年末のお歳暮の時期を過ぎ、年明けで終わりとなりました。入決者のH君に仕事を紹介してあげようと、地区リーダー兼任の副部長(現・副支部長)が自営でしている通信関係の工事(ケーブルTVのケーブルを電柱に配線していく工事)の仕事を紹介し、さらに親戚の家での虐待から守るため、副部長宅の離れに住み込みで雇ってもらうようお願いしました。

バイトがなくなると、やはり調子悪くなりました。
折伏がだんだん負担になり、副部長に任せました。これが大失敗でした。毎朝「新幹線勤行」で、H君はとてもついていく事が出来ません。さらにH君の彼女が同じく家出をして来て、住み着いてしまいました。お約束の魔」の登場です。同棲です。その彼女も、どうやら心の病を持っているらしく、一緒にいると何故か私の頭が痛くなりました。

H君の彼女は、下関出身で、岡山の専門学校に通っていたそうです。実家では親が経営するパブの手伝いをしていたようです。彼女が転がり込んできてからH君もおかしくなってしまいました。

H君と彼女は副部長一家にさんざんお世話になりながら、迷惑をかけた末、最後に二人は結託して、副部長を包丁で脅して金を催促する、というとんでもない事件を起こしました。副部長の奥さんがすぐに110番通報し、警察官が駆けつけ事なきを得ました。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。「恩を仇で返す」とはまさにこの事です。副部長も大学中退など、心の病の傾向性があるようですが、信心で乗り越えています。

後日、H君の両親が岡山からはるばる副部長宅を訪問し、謝罪をしたそうです。お父さんは気の弱そうな方で、何も言わなかったそうです。

その後、H君と彼女は副部長宅を引き上げ、少し離れたところへ引越ししました。不思議と縁があって区副婦人部長選挙宅の工務店で働いていました。しかし、しょっちゅう休んでいたそうです。その婦人部長を訪ねると、「折伏するのなら最後まで面倒見なさい」と怒られました。選挙のFを頼みに行ったこともありました。

後日、学会は日寛上人の御本尊御下付で再開され、H君は区副婦人部長の紹介で御本尊を頂きました。が、結局御本尊を返し、退転してしまいました。ご主人(当時支部長)は元々「よう折伏出来ん」と言われていたそうです。

数年後、偶然ファミレスでH君と再会しました。なんと別の彼女と子供二人を連れて来ているではありませんか!話を聞くと、元彼女とは別れて、自動車教習所で知り合った彼女と結婚し、子供二人が出来たそうです。仕事は建設関係で、元彼女とは別れて行方不明だそうです。住処を訊き、年賀状も出しましたが返事は来ず、また行方不明になりました。H君とはそれきり会っていません。もっと早く家庭訪問するべきでした。

心の病を抱えながらの折伏は本当に大変です(ーー;
でもそこを乗り越えてこそ宿命転換出来るのだと思います。最近、地区部長に指導を受けた時、この話をすると「折伏は絶対他人に任せたらアカン」と言われました。私が折伏する相手は必ず、なにがしかの心の病を持っています。眷属ですね。

本流だけが折伏ではありません。
「能く竊に一人の為にも法華経の乃至一句を説かん当に知るべし是の人は則如来の使なり如来の所遣として如来の事を行ずるなり」(諸法実相抄1359ページ)とあるように、たとえ一言でも立派な折伏です。この事件以降、私は本流は慎重にならざるを得ませんでした。現在、折伏は下種と選挙のFのみ頑張っています。今も会友(作業所の先輩)がいます。新聞啓蒙は4面の座談会が嫌いで出来ません。

今回の書き込みは辛かったです(ーー; ここには書けないほどひどい事もありました。


[490] 私の履歴書I自宅療養編W 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/14(Mon) 23:23:59

平成3年、宗門問題が勃発してからというもの、うつ病が悪化し、ますます家に閉じ篭る日が増えました。そして11月28日、ついに宗門は学会を破門しました。いわゆる「魂の独立記念日」です。これで学会は、もはや宗門の言いなりにならずに済むようになったわけです。

私の病気は相変わらず一進一退を繰り返し、一向に治る気配がありません。平成4年になり、『何かしないと・・・』と思い、アルバイトを探しました。朝起きられないので、昼からのバイトを探しました。幸い13時〜17時の4時間だけの、宅急便の配送センターでの仕分け作業を見つけました。時給は800円でした。

バイトを始めましたが、寝込んでいて体力が落ちていたため、すぐに疲れてしまいます。バイト仲間には、かつて東大を卒業して神戸大学で数学を教えていた人もいました。(@_@) その方もどうやら心の病を患っていたようです。話し掛けてみましたが、詳しい話は教えてもらえませんでした。

そんな時、剃りこみを入れたヤンキー風の、ちょっと強面(こわもて)の少年が現れました。孤独そうだったので、恐る恐る勇気を出して話をしてみると、どうやら元暴走族で、足を洗うために岡山から家出して暴走族仲間から逃げていたようです。親戚の家に居候していましたが、その親戚からはひどい虐待を受けていたようです。思い切って仏法対話をしてみると、あっさり入信決意をしてくれました。\(^o^)/

幸い彼の親戚の家は、我が家の近所だったので、出勤前に一緒に勤行をして一緒にバイクでバイトへ行く生活が始まりました。男子部の各種会合にも一緒に参加したりしていました。しかし、当時はまだ宗門問題の渦中で、御本尊御下付が停止されていました。

続きます


[489] 私の履歴書H番外編(宗門問題) 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/08(Tue) 23:55:05

最初1990年12月27日付け一般新聞に「池田名誉会長、総講頭罷免」との記事が載ったので、\(@O@)/エッ?っと最初は信じられませんでしたが、年が明け時が経つうち、日顕が直接指示していた事がだんだん分ってきました。そういえば、一度登山で、丑寅勤行に参加したとき、日顕がいきなり所化を中啓で殴っていたのを見た事があります。一緒にいた先輩は「勤行の声が合ってなかったからとちゃうか?」と言ってました。「そーかなー別に問題なかったようですけど・・・」と、その時点ではこんな事になるとは想像もつきませんでした。

私は最初『宗門は、あれほど池田先生が宗門外護をして来たのに、なんでまた恩を仇で返すような事をしたんだろう?』と思っていましたが、男子部の(教授でもある)先輩は「僣聖増上慢の出現や!」と早くから見抜いていました。私は「C作戦」の実行以来、調子が悪くなりました。(>_<)せっかく治りかけていた、うつ病も悪化してしまいました(ーー;

信心してから、よくお寺に行ってはお題目をあげていました。学会の会館と違って、正宗寺院はいつでも誰でも好きなだけ唱題が出来る、という環境が無くなってしまったのです。もうそれも出来ない・・・塔婆供養も先輩に指導されて、さんざんしました。御講も好きでよく行ってました。学生部時代の後輩なんか、「邪宗の寺院で靴紐を結んだだけで頭を下げるから謗法」とか「数珠ひともみで1万遍唱題の功徳が消える」などと宗門の教えを本気で信じていました。それも全部騙されました。(-_-メ) おまけに正本堂まで破壊するとは・・・(怒)

未だに「何であんなに金持ちになるまで学会は黙ってたんや?」という声を聞きます。しかし、先生は時を待たれていたんだと思います。そのために「本部幹部会同時中継放送システム」を作られたんだと思います。でないと退転者が続出していたでしょう。昭和53年〜55年の第一次宗門問題で学会は懲りてましたから。実際、今回の第二次宗門問題で支部ごと脱会して日顕宗へ行ってしまった支部さえあるそうです。(@_@)
ちなみに第一次宗門問題では1年で約3万人が脱会しています(ーー;

私も騙されていた事が解り、かなり自分を責めました。でもいくら自分を責めても何の解決にもなりません。うつ病の悪化を招くだけです。於保先生が言われる「自分を好きになる事」の正反対です。


[487] 私の履歴書G自宅療養編V 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/06(Sun) 02:31:34

平成2年春、学生部時代からの同志である友人からバイトを紹介してもらいました。仕事はその友人が勤めるゼネコンの研究所での雑用でした。ワープロ入力や、コンクリートの破壊試験などで、それでも時給2000円という破格の待遇でした(⌒▽⌒)

4月5月の2ヶ月間は調子がよく、たまに休む程度で、ほぼ毎日勤めてました。しかし、6月のある日、課長から突然解雇されてしまいました。特に問題もないはずなのに原因もわかりません(ーー; 友人も「なんでやろ?」と首をかしげていました。

仕事が無くなって、また生活のリズムが狂ってしまいました(>_<)その後、何度か不定期でバイトの依頼がありましたが、狂った生活のリズムはなかなか元に戻れず、結局無断欠勤でクビになりました(;_;)一級建築士の試験にも挑戦しましたが、全く歯が立ちませんでした(ーー;

一方その頃、妹が心の病気を発症してしまいました。
私とは全く逆の「躁状態」です。妹はしゃべりだしたら止まらず、何日も徹夜していました。原因は会社の新人研修で、何日も徹夜した反動のようでした。妹の病気がきっかけで、母が信心を始めました。朝晩一緒に勤行し、平成2年7/3入会しました\(^o^)/
間もなく妹の病気も治癒しました。

またその年(平成2年)の秋、大阪城ホールで「関西大文化祭」にも出場させて頂き、先生と再会できました(⌒▽⌒)
その年末、とんでもない事件が勃発しました。そうです。宗門の「C作戦」の実行です。

Wに続きます


[486] 私の履歴書F自宅療養編U 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/05(Sat) 04:28:25

神戸では、まず、知り合い(前出の父の親友の塾の先生)の紹介で、神戸労災病院に通院していました。しかし病気は一進一退を繰り返し、なかなか治りません。

於保先生から、紹介状をもらっていたので、家族同伴で高山診療所にも行きました。最初は「目標を半分にしなさい」と言われました。しかし・・・高山先生は厳しい先生で、両親をいきなり折伏し、「あなた方の家庭はお父さんとお母さんが逆転している。だから本人(私)は迷っているんです」と言われ、両親は怒って帰りました。でも当たってるんです。家庭の情況を見事に見抜かれました。(;^_^A アセアセ 二度目に行った特は「信心やめなさい」と言われ、\(@O@)/エッ?っと思いました。またせっかく於保先生の紹介状をもらっていながら、他の病院(神戸労災病院)へかかっていたので、物凄く怒られました(>_<)。怒られたショックで死にたくなり、大阪の谷町付近を放浪し、夜になって、もう一度高山診療所を訪ねました。

高山先生は「なんで一日に二回も来たの?」と聞かれ、その場で耐えられなくなり、号泣してしまいました。慌てた先生は「すぐに点滴打つからね。やっぱりあなたの病気は重症ね」と言われました。
『ちょっとやり過ぎたかな』と思いましたが、これぐらいしないと解ってもらえませんでした。両親は激怒し、「二度と行くな!」と言われました。母は、谷町9丁目(高山診療所の所在地)をもじって、「地獄の9丁目」と言いました。ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆

男子部では東京で任命された「副地区リーダー」のまま、学会活動に邁進していました。でも、昼間寝て夜な夜な学会活動をする、という生活は、常識では考えられない、異常な生活です。まるで学会活動が夜勤の仕事のようでした。

地区リーダーが倒れていたので、地区の男子部は崩壊していました。仕方なく「地区大会」に向けて副地区リーダーの私が仕切っていました。しかし、肝心の本番になって倒れてしまい、仕方なく隣の地区と合同で、地区大会を開催しました。男子部の先輩方は気を使ってくれて、助かりました。正役職(地区リーダー)なんか、とても出来ませんでした。

Vに続きます


[485] 私の履歴書E自宅療養編T 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/02(Wed) 23:54:48

会社を辞めてなぜかスッキリした気分になりました(⌒▽⌒)
しかし、その後長い長い療養生活になるとは・・・(ーー;(絶句)

会社を辞めて、寮を引き上げる時、せめてもの東京の思い出を残そうと思い、新宿から小田急ロマンスカーに乗って、江ノ島まで行きました。変わった地形で、観るのが新鮮でした。島も山頂まで上り、夕暮れを目に焼き付けてきました。

鬱での引越しは大変でした(;^_^A アセアセ
何しろ、鬱で体が動かんし、会社の総務からは「早く出て行け」との命令が出ました。会社なんて辞めたら冷たいもんです。泣きそうになりました。荷物はほとんどなかったので仏壇以外は小物ばかりで助かりました。テレビも壊れていたので捨てました。

神戸の実家に帰ってきて半年ほどは、学会の組織には付かず、調子のいい時だけ勤行をしていました。あとは三ノ宮をぶらぶらしたりする以外は、ほとんど一日中寝て暮らしていました。

そんな時、教学試験があることを知りました。「青年部教学試験2級」です。すぐに勉強を開始すると共に、「実践の教学でなければアカン」と思い、組織に付きました。2級試験は余裕で通りました\(^o^)/

Uに続きます


[484] 私の履歴書D会社と信心U(東京編) 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/01(Tue) 22:18:51

1年間の現場研修が終わり、昭和61年4月1日付けで、東京本社転勤となりました。

寮を観に行ったら、なんと学会本部が近所にあるではありませんか!そう、そこは先生と同じ支部である「南元(なんげん)支部」でした。

公明党本部もあるし、駅は「信濃町」だし、聖教新聞本社もあるし・・・「うわあ〜こりゃ頑張らなあかんなあ〜」との思いと、「先生に会えるかも・・・o(^−^)oワクワク」との期待と決意で胸が膨らみました。夜、学会本部を見学しながらぶらぶらしてると牙城会につかまり、挙動不審で警察に突き出されました(;^_^A アセアセ

東京本社では「技術開発室」という、いわば中枢に配属されました。去年の嫌な思い出を振り切って頑張ろう!と決意しました。
実際、先輩は「優秀な奴が来た」と期待していたようです。
最初の4月と5月は本当に調子よかったんです。が、6月の合宿以来、原因不明の頭痛と吐き気と息苦しさが続き、仕事に支障が出てきました。

♪なんでだろ〜なんでだろ〜なんでだなんでだろ〜♪

原因不明の三つの苦しみに耐えられなくなり、会社の診察室を訪ねました。しかし、31歳の若い医者は何もわかりませんでした。年配の看護婦さん(当時)だけが救いでした。
また、まだこの時点では、「うつ病」と言う名前も知らず、なんかの病気かな?程度でした。まさか心の病とは知らなかったのです。

そうするうちにどんどん症状がひどくなり、たまらず慶応病院の耳鼻科へ行きました。しかしどこも異常はなく帰されました。

その後も病気はひどくなり、遂には仕事が出来なくなり、会社に来ては、まず診療所で寝かしてもらってました。病名がわからないだけに、手の打ちようがありません。

それでもたまに早く帰ってくると学会活動をしていました。しかし、その地区にも問題がありました。なんか暗いのです。
地区部長は問題のある人でした。ある日、先生のビデオの映写会があるというので行ってみたら、地区部長が居ません。婦人部の方が嘆いていました。「せっかく先生のビデオ映写会なのに地区部長が来ない」若かりし自分は、地区部長に直接電話したら「私用で行けなくなりました」とのこと。私は激怒し、。「あんた一人の都合で会合を中止するのか!」と地区部長を破折しました。するとなぜか男女青年部員が集まってきて、映写会は無事行われました(⌒▽⌒)

御義口伝に「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」(762ページ)
とあります。つまり、私が地区部長を破折したおかげで皆が集まってきたのです。「これが功徳なのか」と分ったのは、随分後の事です。

仕事の方は相変わらず毎日10時過ぎまで残業し、徐々にストレスと過労で蝕まれていきました。頭痛がひどくなり、3日間休みました。会社で私の事が大騒ぎになっていたようです。また、図面を見ただけで吐き気がしたり、ますますストレスが溜まり、会社での信用は失墜しました。ついには会社に行けなくなり、会社の寮で、自室にカギをかけ、一歩も外へ出なくなりました。
いわゆる「登校拒否」ならぬ「出社拒否」でした。

夜は寮に居るのが辛く、学会活動で気を紛らわしていました。
しかし、徐々に「死にたい君」(死魔)が出てきて、気がつくと寮の屋上から飛び降りようとしていました。ハッと我に返り思い留まりました。

「もう死にたい」と思っていた昭和62年1月10日、学会本部の師弟会館で四者地区部長会に出ました。会合終了後、ガラ―と後ろの扉が開いて池田先生が「四谷本部万歳!」と両手を上げて仰られました。遅れて来た私は5メートルほどの距離でした。その時だけは歓喜しました。

春頃、ドラフタ―(製図台)に向かって一日中ぼーっとしている私を見かねた上司が「ちょっと一週間ほど実家で休んで来い」と言われました。諸天善神の登場です。実家の近所の神経内科へ母に連れて行ってもらい、やっと自分が「うつ病」である事が判明しました。薬を飲むとあれほど苦しんでいた、頭痛、吐き気、呼吸困難が嘘のように治りました。また、東京では学会のドクター部の於保先生を紹介してもらいました

それでも手遅れな状態で、仕事が出来ず、1年半、休職した後、復職できず、平成元年3月、幹部に指導を受けて辞職しました。

それから長い長い闘病生活が始まりました。

自宅療養編に続きます。


[483] 私の履歴書C会社と信心(名古屋編) 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/01(Tue) 14:52:24

大学卒業後、積水化学工業(株)に入社しました。

実は4年の時、すでに内定してたのですが、「モラトリアム症候群」(モラトリアム=執行猶予)にかかり、卒業するのが怖くなったんです。それでわざと単位を落として留年しました(ーー;

神戸市役所も受けたんですが、とても歯が立ちませんでした。
就職もこりずにまた積水を受けて通りました。 (゜∇ ゜)ブヒャヒャヒャヒャ
夏休みに1万遍唱題を1ヶ月続けた成果がありました。
まだバブル期が始まった頃で助かりました(;^_^A アセアセ

新人研修で同じ部屋になった子が、神戸大学出身の学会員さんでした(@_@) だから毎日一緒に勤行してました。(ー人ー;)

最初の赴任先は名古屋でした。セキスイハイムの現場監督です。
寮は、昔子供の頃住んでいた社宅の近所でした。昔山だったところが全部住宅地になってました。よく沢でザリガニ取りとかしてました。懐かしいので小学校時代の友達を誘ってお茶しました。実家の仕事の手伝いが多かったですね<名古屋の友人

で、御多分にもれず仕事と学会活動で悩みました。
最初は張り切っていたのですが、だんだん仕事が出来なくなり、先輩から怒られたショックでうつ病になりました。何度かクルマ(社用車)で「このまま海に突っ込んで死にたい」と思った事もありました。

寮で同じ部屋だった奴は、要領がよく、重宝されていました。
新人二人で比較され、私はめちゃくちゃ惨めでした(>_<)

一番ショックだった事は、牙城会の着任と寮の送別会(実は新人二人は一年で東京へ転勤になりました)が重なった時です。
個人的なことで牙城会の着任をはずす事は出来ませんでした。
仕方なく、牙城会の着任を優先しましたが、あとで、寮の先輩から
「なんで主役が来んかったんや!」と怒られました。
それと、民音の「ニニロッソ・コンサート」で一番間の席を取っててもらったにもかかわらず、急に会議が入って行けなかった事もありましたo(><)(;><)o ジタバタ

今はそんな事はないと思いますが、とにかく夜中まで仕事して、
学会活動をするのはどうかと思います。

当時は昼は現場、夜は事務作業で、大体10時半頃まで働いていたと思います。いきなり男子部班長になったもんですから、副支部長が「大丈夫か?」と心配してました。

やはり名古屋は辛い思い出しかありません(>_<)
でもさすが「堅塁中部」だけあって信心のレベルは高かったです。

「東京編」に続く


[482] 私の履歴書B大学と信心 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/01(Tue) 13:33:54

京都で下宿しながら、大学に通い出したんですが、本当は「造園」をしたかったのに、実際は「建築」でした<住環境学科
しかも「毎月1回は徹夜で課題をこなす」と聞いて、「しまった!」と思いました。

もう後の祭りでした。もういまさら受験できないし、何をしたらいいか解らず、だんだん「五月病」になっていきました。

そんな折、「東洋哲学研究会」というのがあって、しきりに学食でアンケートを取ってました。「大学に入った目的」とか「将来の夢」とか「あなたは宗教に関心がありますか?」などです。
何も知らない私は、正直に答え、最後の「住所・氏名」まで正直に書かされました。オウムでなくてよかった(;^_^A アセアセ

連休の直前だったと思いますが、「東洋哲学研究会」の先輩が、どこで調べたのか、ある夜、私の下宿に来て折伏されました。(;^_^A アセアセ
先に「スキー部」に入部していたので、それを否定されたら止めようと思ってました。ところが、「スキーも頑張ってね」と言われ、二日がかりで折伏されました。反対する理由が見つからず、結局二日目で、根負けしてしまいました。なぜか、みんな喜んでくれました(*^^*)
今考えてみたら、「先輩の人柄に惚れた」のが一番で、あと下宿の寂しさや、五月病や、先に同じクラスの奴がやっていたことと、自分の人生に自信を無くしていたことなどで、一言も反対せず、思い切って飛び込みました(^^ゞ
やはり折伏は紹介者の情熱ですね(⌒▽⌒)

翌日から拠点で「五座・三座の勤行」が始まりました。足が痛かった(>_<)特に、五座の勤行は最初1時間かかりました。
この光景はなんか不思議で、「みんなお坊さんなのかな?」と錯覚したほどです。 ヾ(@^▽^@)ノ あはは

勤行をすると、不思議に命が軽くなるような気がしました。
先輩に着いて信心の基本を学びました。後でわかったんですが、下宿のおばちゃんも学会員さんだったんです(@_@)

1年の半年ぐらいまでは真面目に勉強をしてましたが、徐々に学会活動が忙しくなってきて、夕方起きて、スキー部と学会活動だけになってしまいました(ーー; これが今の病気の発端です。

結局、留年し、親からの仕送りを止められたので、神戸の実家に帰ってきました。、「神戸市役所を受けます」との大義名分でした。単位はあと僅かだったので、家から通いました。
また、後輩の下宿の泊めてもらったりして、大家さんに怒られました(;^_^A アセアセ

学生部時代はいい思い出でであり、信心の原点です(*^^*)
今でも時々京都へふらっと選挙のF取りとかで、京都に行きます。
また、大阪の長居陸上競技場での3・22関西青年平和文化祭に出られたことが僕の信心の変わり目でしたね。
先生に「不退転の決意」を誓いましたから。

勉強は出来ませんでしたが、学生部時代は黄金の思い出です。
2世帯の折伏も出来たし・・・しかしもっと勉強しておくべきでしたo(><)(;><)o ジタバタ

社会人編に続きます


[481] 私の履歴書A 高校時代 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/01(Tue) 12:09:49

学区で一番の高校に入れたんですが、中3の冬に発症したノイローゼのせいで、成績は急降下しました。入った来は33番、夏に実力試験では250番台まで落ちました(ーー;

ノイローゼが治ったきっかけは、応援団です。

昔から我が高校は春と秋に、神戸高校と定期戦をしています。
ちょうどクラスから3名が選ばれることになり、見事そのくじを引いてしまったのです(;^_^A アセアセ

大声を出しているうちに、6月頃いつの間にか治ってしまったんです(⌒▽⌒)

しかしいったん崩れた成績は落ちる一方で、何とか追いつこうと恋愛もせず、遊びもせず頑張りました。

3年になると「文科系」と「理科系」に分かれます。
私は数学が得意だったので、「理科系」に進みました。
(本当は理科は苦手だったんですが・・・(;^_^A アセアセ)
神戸大学を目指して頑張ってました。

3年のクラスは「男クラス」だったので色々面白い事もありました(⌒▽⌒)
文化祭でオカマの格好をしたり、合唱コンクールで学年で優勝したり、掃除道具入れにエロ本を隠したり(≧∇≦)ぶぁっはっはっ!!
傑作だったのは、夏休み明け、誰も焼けてるやつが居なかった事ですねかね (≧∇≦)/ ハハハ

また部活では応援団を辞めて、体操部に入りましたが、
技をだんだん憶えるうちに、怖くなってきて結局1年で辞めました(ーー;

親父の親友が塾を開いていたので、数学だけ習いに行ってました。
英語は中学時代、得意科目で、90点以上取り続け、ずーっと5だったんですが、高校に入っていきなりレベルが上がってついていけなくなり、いつの間にか苦手科目に落ちてしまいました(ーー;
案の定、共通一次試験は英語と社会が足を引っ張り、大失敗しました(ーー;

この時点でおそらく国立は無理だろうと思ってました。
幸い関西大学の工学部に合格していたので、滑り止めになってました。
でも関大は行く気がなかったので、2次試験で挽回しよう!と思って、苦手な理科と英語のない「京都工芸繊維大学」に射程を絞りました。落ちたら浪人する覚悟でした。

2次試験は「数学」と「実技(空間構成とデッサン)」でした。
配点は

*共通一次・・・1000点
*数学・・・・・・ 200点
*実技・・・・・・ 300点

たまたま実技がうまく出来、合格しました(⌒▽⌒)


[477] 私の履歴書@誕生から少年時代 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/01(Tue) 09:19:47

これから数回に分けて、自分の履歴書を書きます。
よろしくお願いしますm(__)m

<少年時代>
1962年1月13日
神戸市立市民病院(当時は布引)で生まれました。
3150グラムの大人しい子供だったそうです。
体は健康でしたが、3歳までしゃべられなかったそうで、親が心配して、病院で検査したそうです。結局何の異常もなかったそうです・・・

2歳で親父の転勤に伴い、横浜に引っ越しました。

小学校3年に上がろうと言う時に、名古屋へ転勤になりました。
仕方なく名古屋へ引っ越しました。名古屋ではほとんどいい思い出はありません。いじめに遭ったのはその頃です。
中学に入り、体操部に入りました。中学に入ってから成績が急上昇しました(⌒▽⌒)

2年生上がる時に今度は親父の大阪転勤のため、堺市の社宅に引っ越しました。「浜寺中学校」という学校で、1学年18クラスもありました(@_@)
その中で実力テストの結果がクラスで2位、学年で19位でした。
「この成績なら三国ヶ丘高校行けるぞ!」と内心喜んでました(*^^*)

ところが3年生に上がる時、家を建てて神戸に引っ越しました。
結局転勤、引越しで友達が出来ませんでした(ーー;
引っ越した先がなんと、電車通学の中学校でした(@_@)

これがほんまに神戸か?六甲山の裏が?と驚きました。
山田中学校というまさに山奥の中学校でした(ーー;
学校が変わるたびに教科書が変わり、苦労しました。
要するに、中学三年間は1年ずつ別の学校へ三つ通ったのです。

でも、中学3年の1年間は充実した、光り輝く栄光の1年でした。
好きな女の子も出来て(片思いでしたが(;^_^A アセアセ)
勉強もスポーツも出来、何をやってもうまくいき、もう少しでオール5になりかけました。社会と音楽が苦手だったので、4でした。

しかし、楽しき日々は3学期で福運が尽き、ノイローゼを発症しました。最近ようやくわかってきたんですが、年明けに学級委員長になってそのストレスで発病してしまったようです。

次回は高校時代から(続)


[469] ペパーランドの気象学 投稿者:(ウォーイズ)オーバー 投稿日:2004/12/22(Wed) 23:33:53

緑の水、循る夕まぐれ、舗道で背中を病む男が、美しい頭蓋の形をもつ心理学者と二人で、言葉のカード遊びをする。「かくも長き不在」それは発火するガソリンの匂いがした。
*
地下水脈の中で、少年たちは雑誌を切り抜く。木星のための「デモクラシー」を製作しては、その痕跡を限りなく歪曲してゆく。
*
ある晴れた朝突然に、A夫人は左手で詩を書く。ひとつの歓びがすべてを失うように。
酸素のように由緒正しい子供たちが、夕暮れを駆けまわる。ビーナス気取りのA夫人のベッドは瀑布を擁する湖でできているらしい。
*
トラッドな船長が、船出の夜、舷側にもたれ煙草をふかすのみである。
  「夢というものはいつでも同じものらしい。心が眠っているうちに出て行こう」
*
焼けつく生活。働くひとは首筋を、夕陽に曝露する。
  「手が眠っているうちに"私"を巡ろう」図書館員の手に鍵。書棚の奥でインクが流れた。
*
外交官が「為替」銀行で気高くまやかしをする。店員は驚いてまやかしをする。「宇宙には、宇宙には、−−−三つの部屋がある」「愛、付加価値、戦争」
    *
タンジェリン熟れる木の下で、乞食たちを猿たちがからかう。
  「僕は変わる。僕は変わる」周りから頼りになる歓声が起こる。
千万変化の怠け者。世界、われらの夢。
    *
彷徨う寺院は地上に、かって存在しなかった。頭ひとつノッポになった都会を走る聖者は、街角を曲がった。風は速やかな省察を残し、そしてそれを部屋が鍵かける。


[468] Sometimes you can't make it on your own by U2 投稿者:Bono 投稿日:2004/11/17(Wed) 00:22:15

Tough,you think you've got the stuff
You're telling me and anymore
You're hard enough

You don't have to put up a fight
You don't have to always be right
Let me take some of the punches
For you tonight

Listen to me now
I need to let you know
You don't have to go it alone

And it's you when I look in the mirror
And it's you when I don't pick up the phone
Sometimes you can't make it on your own

We fight all the time
You and I...that's alright
We're the same soul
I don't need...I don't need to hear you say
That if we weren't so alike
You'd like me a whole lot more

Listen to me now
I need to let you know
You don't have to go it alone

And it's you when I look in the mirror
And it's you when I don't pick up the phone
Sometimes you can't make it on your own

I know that we don't talk
I'm sick of it all
Can-you-hear-me-when-I-
Sing,you're the reason I sing
You're the reason why the opera is in me...

Where are we now?
I've got to let you know
A house still doesn't make a home
Don't leave me here alone...

And it's you when I look in the mirror
And it's you that makes it hard to let go
Sometimes you can't make it on your own
Sometimes you can't make it
The best you can do is to fake it
Sometimes you can't make it on your own

(以下訳詞)

タフなんだ、負けない自信があるんだね
ぼくにもみんなにも
強いんだって言って回ってるもんな

闘う必要はないのに
いつも正しい必要はないのに
今夜はあなたに向けられたパンチを
何発かぼくに受けとめさせて

きいてほしい
あなたに伝えたいんだ
一人で頑張る必要はないんだってこと

鏡をのぞきこむとそこにいるのはあなた
ぼくが取らない電話をかけているのはあなた
時には一人じゃ無理なことがある

ぼくたちはいつも喧嘩だ
あなたとぼく・・・いいさ
二人はひとつの魂だ
言われなくたって・・・あなたに言われなくたっていい
もしこんなに似てなければ
おまえがもっとずっと好きになれるのになんて

きいてほしい
あなたに伝えたいんだ
一人で頑張る必要はないんだってこと

鏡をのぞきこむとそこにいるのはあなた
ぼくが取らない電話をかけているのはあなた
時には一人じゃ無理なことがある

たしかにぼくたちは口をきかない
うんざりだよ
き・こ・え・る・か・い―ぼくが歌っているのが
あなたのために歌っているのが
ぼくの中でオペラが鳴っているのはあなたのため

ぼくたちどうなっちゃったんだろう?
なんとかしてあなたに知ってもらわなきゃ
家が建っているだけでは家庭にはならないって
ここにぼくを一人で置いていかないで・・・

鏡をのぞきこむとそこにいるのはあなた
ぼくが取らない電話をかけているのはあなた
時には一人じゃ無理なことがある
一人じゃ無理
せいぜい、大丈夫なふりをするぐらいだ
時には一人じゃ無理なことがある


[465] 空飛ぶ馬。 投稿者:vol de nuit 投稿日:2004/09/19(Sun) 23:12:01

夜の静寂のなかで、わたしは車を走らせる。

守るべき主なき、のら犬、のら猫達、車ではねられたいたち。

世の苦悩を思う。かけていた音楽のスイッチを止め、唱題する。


寝静まる山河の谷底を走る。

自らの宿業、友の宿業を思い、唱題する。そして、こころゆくまで唱題したあとは、歌う。

「世界に一つだけの花」、「涙そうそう」、「Bridges over troubled water」、「A flower that shattered the stone」、、、


闇の中、車をとめ、盆のような月と、シャンデリアのような星たちをみる。

餅をついているうさぎのそばを、点滅しながら飛行機が翔けていく。

うさぎの懸命なすがたと、空飛ぶ馬車がかさなる。


天涯のかなたを夢見る。空飛ぶ馬車のなかを思う。窓の外の、大雲海のかなたで、お餅をついているうさぎをおもう。

その昔、曽祖父が拓いた土地で生まれ育った。その田んぼの真ん中で、妹と空を見上げた。空飛ぶ馬車にむかって、手を振った。

臆病な子どもであった。いじめの標的だった。そんなとき、天涯の彼方を、空飛ぶ馬でかけていく夢をみた。よだかの星のように、大雲海のかなたを翔けていく夢を。


「不可能な夢は見ない。」人はいう。空飛ぶ馬、、、。

わたしは、世の苦悩と宿業の全てとともに、空飛ぶ馬に乗せて、天涯の彼方をめざしたい。
そして、この世を優しい月と、シャンデリアのような荘厳な風景で彩りたい。
天涯のかなたに訴えたい。「世の苦悩と宿業を救い給え!」と。
そして、内なる仏に祈る。「仏性よ、炸裂してその力をみせよ!」と。
かつて曽祖父が村人たちに笑われながら、河原を見事に田園に変えたように。

わたしは、祈りと月、星、山奥の木々、動物達、すべてに、エネルギーを感じる。

夜の静寂、寝静まる山河の谷底、闇。

空飛ぶ馬のふるさとは、全き闇のなかにある。

vol de nuit.


[464] Untitled 投稿者:ヨン 投稿日:2004/08/24(Tue) 00:32:45

私の事を最低と思う人もいる。

それはそれでいいのかも知れない。

こっちから相談を持ちかけても返事はあっけない。

自分の事を説明なんてしなくていいのかも知れない。

今気になるとしても寂しいからだけの気がする。

寂しいからパソコンに向かう。

パソコンの向こうはみんな魅力的に見える。

現実よりも。・・・

それはパソコンの魔力だ。

でも卒業出来ない自分がいる。

自分は結局弱いのだ。

24時間テレビを見た。

みんな大変な中でもみんな強い。

病に負けていない。

私は寂しさに負けている。

だからお酒を毎晩浴びるように飲む人の気持ちに同情してしまう。

もっと強くならなければいけないのだ。

先生のスピーチには勝つのだ勝つのだと励まされている。

自分のやれる範囲で勝つのだ。

仕事はアルバイトは理想が高すぎなのだよ。

心の病は体を使う仕事の方が向いている。

プライドを捨てるのだ。

そうしないといつまでも脱皮出来ない。

友達聞いてくれてるかな。

これでも応援歌のつもりだよ。

私も自分のやるべき事に対して勝利したい。

勉強、唱題。

負けたらだめだよね。

負けたらだめなんだよ。

まとまり無くなった。すいません。


[463] 人間ぞ 投稿者:喜田清次@支援センター 投稿日:2004/08/21(Sat) 16:45:04

人間ぞ
さみしい瞳が 涙にうるむ 人の想い
病に苦しみながらも 人に尽くす人が居る
健康そうな人も 人々に薬を飲みながらも 人に尽くす人も居る
保身的で有りながら 人を想い 心尽くす人が居る
若い命を 平和の為に 捧げる人もいらっしゃる
もったいない ありがたいです


[460] 休刊日の荼毘 投稿者:オーバー 投稿日:2004/08/16(Mon) 02:04:58

純潔な水素による愛の戦慄が
砂漠の血の上で あらゆる非道を積算する
あなたは勝った なんとあの血の美しかったことよ
逃走する星の先端で あなたはひとりで激論した
われわれは白い骨を集めた それは今ここに
澄んだ水に浸っている

目を覚ませ もう真昼だ
ハガネの空と海
後生も知らず果てた海鳥の瞳の中を
島々を駆けた風の一群が 沈黙を羽織り滑ってゆく
光はハガネの楽譜から塩の快味に成就して 脱果する
磯をうごめく軟体生物の惰眠を言祝ぎ 風と交わる老人の額に熟青する

海辺の小屋に月がかかり ベランダの上着に雪がふりつもる
波は時を梳り トカゲは星の重みを抱いて瞬きする
空は原子精錬を抜け 最上空を
火傷の記憶に愉悦する鳥の速さが 上昇しながら落ちてゆく
遠くで僧団の合唱のような禁欲を想わせる 断崖の野火がたつ

男は鼻を鳴らしベッドから離れた
タバコを吸い ビールを混ぜてトマトジュースを飲む
くたびれたブラインドをひねると 潮騒と
真昼の陽光が入りこむ

たしかにきのう ママンが死んだ


[459] 赤漠感覚 投稿者:オーバー 投稿日:2004/08/13(Fri) 02:28:13

オレンジガーデンの赤い砂塵 熱っぽく爛熟する気圧の予感
そは むずがゆい新奇な貿易律

身軽な舞踏マンの睫毛の翳に 休息する不逞の情熱
肩に 海風交易への野放図な稜線の破綻
瞳にたわむ 雷雨を孕む気流の昏迷
褐色の胸に 白熱する海の傷口 白い花の一日の諸断面を想わせる

バナナスタンドのおやじの足のうらで
灰殻の闘争するはぜ音
コーヒーテラスの日除けからぶらさがる不吉なクモ
野外ステージの無人の客席に 交尾する風を噛む猫

捨てられるオレンジ
風に巻かれる砂塵 立ち惑う牛
口紅をぬられる唇 舞い上がる新聞の中で笑う顔
閉じられる窓 テレフォンボックスの中で失われる言葉
門口に忘れられた傘 ベンチの老人を置き去りにする鳩
老人の髭のもとには 炭化物の風変わりな気品
決算を急ぐ人の傍で 心臓を掠め取られるギャロップ
果物かんばんプラーク飛び交うなかで
鼻の利く犬を気取った子供たち

驟雨のなか熱帯樹よりも昂然と 海岸通りへおりてゆく少年
珍奇な祈り
惑乱して恥らう歩行がある 両足が稲妻の分岐を欲望して
風のようにガラスのように 軽くなる硬くなる


[457] わが母校 投稿者:ブラン 投稿日:2004/08/02(Mon) 23:26:25

母校を思い出すとき,
なぜかふてぶてしい顔ばかり思い浮かぶ。

学生課の窓口にいた女子職員。
無愛想どころか,まるで敵扱いだった。
どのような者であろうと,
あなたにとって学生すべてが憎むべき敵そのものだったのだろう。
「教職学理一体」はそこではもう瓦解していた。
あなたを見てどれだけの学生が幻滅し,
理想を現実と割り切っただろうか。

図書館のコピー機をよく占領していた「学企」の男。
「コピーするんですか。やるなら早くしてくださいよ!」
と仏頂面でせき立てた声を未だに忘れられない。
君はそんなに偉いと言うのか?
ならばその違いをはっきりと示してくれよ。

そう,「偉い人」はたくさんいた。
階級などないはずなのに。
何が違っていたのだろう?
学力? 出自? それとも活動量?
いくら考えてもよく分からない。
でも隔てるものが厳然とそこにあったのだ。
4年間懸命に乗り越えようとして,とうとう乗り越えられなかった,あのあいまいな壁。

それが何であるのかを知ろうとし,
それを乗り越えようと持てるものすべてをdedicateし,
「まだ足りない!」と自分で自分を責め続け,
とうとう自分の土台を壊してしまった。

ユートピアであるかのような喧伝を信じ,
凍てついた環境になお留まり続けた日々。
私は未だにあのころできた凍傷を克服できていない。


[454] リオの男 投稿者:オーバー 投稿日:2004/07/24(Sat) 15:40:53

乾いた季節だ
皮肉が取り柄の女が 胸をはだける
夜がネジを巻く 海風が女と一緒にノビをする
僕たちはロボットのように 背中を掻き合う
ひとびとは闇のように 波のように低い声で歌う
彼らは恥かしがりやだ 白い歯が自分のことは語らない
そんな人たちと共に 大陸横断鉄道の夜がはりめぐらされる

発明の夜だ 情熱の夜だ
海が動き出す
違った意味で恥かしがりやの女が 頬を濡らす
僕たちは背中を掻き合う
僕は彼女を波間に漬ける
パイプラインの隙間から <空浮かぶダイヤモンドが見えたかい>
<私は空に浮かぶ貝殻 海に濡れる星
でも にんげんのように淋しいのよ>
湿った季節だ
僕たちは引きあげる 夜はそんなに長続きはしない

きっと 海と衛星の物語が巡りあう水準
不思議な傾斜の中腹で「パノラマ」を見る
音もない鼓動の奥殿 植物の美しい形態 光は饐えたように眠っている
景観は 遠近を無視して全開している
眺めることの奇妙さ 僕たちは二人して「発光魚」について考えていた
バルコニーにいるのは 僕たち「抽象代名詞」のほかは鳥獣たちらしかった
「勾配」の不思議な角度が 僕たちを何かに駆り立てた

砂塵のなかの新首都 その誕生からすでに遺跡となった都市
建築が加わるたびに 余白がうまれ加わる
たぶんやってこない未来のための未来都市
砂塵の中を 彼女はサンダルで歩き僕は裸足で走った
資本家が彼女のためのパーティを用意していた

この女 何もできやしない 僕は万能メイド 私語通訳人
ヤバイ夜 「もう少し待つか」
「いまさら何のご用」 僕たちは壊れたバイオリンの音を出しながら出発した


[451] 涙の行方 追伸。 投稿者:ありのまま 投稿日:2004/07/05(Mon) 18:11:41

誰か教えてよ。でした。最後。


[450] 涙の行方 投稿者:ありのまま 投稿日:2004/07/05(Mon) 18:10:36

ほほを伝うこの流れは なんのため?
なぜ涙がこぼれるのかさえわからない・・・。
つらくて悲しくて、なぜ?どうして?
私は、何のために生まれてきたのか?
私の命の使い方 だれかおしえてよ。
だらか私を支えて・・・。


[449] 雨粒の中で 投稿者:Jonathan 投稿日:2004/07/04(Sun) 17:27:20

悲しみの雨が降る街 君へ思いが忘れらずに
ずぶ濡れで 立ち尽くしている

夜な夜なの長電話 僕は 君の雰囲気に包まれて
僕は 君を優しく抱きしめていた

でも、君は君自身のことで、手一杯だったんだね
僕の悲しみは置き捨てにされて 僕はひとぼっちになってしまった

悲しみの雨が降る街 君へ思いが忘れらずに
ずぶ濡れで 立ち尽くしている

胸の痛みに耐え切れずに
悲しみに僕は手首を斬った
粉々に砕け散った生活 拾い集める勇気もない

抱きしめて欲しいよ
愛を求めて探しているから
抱きしめていたいよ
心が寂しさに震えているから

求めては はかなく消えていく恋
雨粒一滴の重さもない命

愛していたいよ
ずっと君のこと包んでいたいから
愛してほしいよ
君の痛みを包んであげたいから

悲しみの雨が降る街 君へ思いが忘れらずに
ずぶ濡れ 立ち尽くしている

求めては はかなく消えていく恋
雨粒一滴の重さもない命

僕の知らない君の優しさに触れてみたかった

失った大きな穴が空いたまま
それを埋める
ドラッグとアルコールとカッター
はかない命だけが、雨に打たれてるよ


[442] 拙きながら 投稿者:ブラン 投稿日:2004/07/03(Sat) 21:38:45

こちらには初めて投稿いたします。
短歌を二首:

●「もうよい」と 言ひて 今世の華やぎに
思ひを断てる 吾が生きざまよ

●深深と 唱える題目(いのり) 通ずる哉
吾が苦しみを 至らせ給へ


[439] 黒い溝が見える 投稿者:青空 投稿日:2004/06/19(Sat) 14:10:17

悪鬼どもが
地下水を使って
僕らを道具にしようと
身を潜め
姿を隠している

「JP1」が音頭をとって
やつらに蠢動のチャンスを与えたのか
あるいは
「JP2」がそうしたのか
「JPX」Xは変数だ

僕らははずさない
あの的を

僕らは罵られながら
言うべきことを言う

そして巨大な同心円に
位置した僕たちは耐える

そして遂にこの無数の円の炎に
「炙られ」

その日やつらは
僕らの命をを手段にしようとした
計画を立てていたという罪によって
シシュポスのように永遠の苦役を
負わされることだろう



[438] 手紙 投稿者:chie 投稿日:2004/06/10(Thu) 00:43:45

星になった君の命よ、永遠に。
君の残した軌跡は決して忘れない。
そして、星空から君の星を探しながらメッセージを送りたい。
生きる勇気を与えてくれてありがとう。
そして、今までご苦労様。
これからはゆっくり休んでね。
来世で生まれ変わって使命を果たす時まで。

〜GAUさんに追悼の意をこめてこの手紙を贈ります〜


[435] 弧絶 投稿者: 投稿日:2004/06/01(Tue) 12:23:56

幼少より欠損したもの、欠落したものを補完するために、
僕は他者を利用しようと必死で努める、欠片を掻き集める。
皮膚感覚、皮膚感覚、皮膚感覚、皮膚感覚、
それを勝手に性欲と呼ばせておけばいいさ。
孤絶した僕の皮膚はとっくに干乾びじまったんだよ。
「ねえ、そこの君、突然失礼だが、僕のオデコを撫でてくれないかい?」
独りであることは何と寂しいことよのぉ。


[433] 先生の著書「地球市民の賛歌」より 投稿者:はとぽっぽ 投稿日:2004/05/28(Fri) 21:24:52

戦争また戦争の日本近代史。
薔薇の咲かない「魂の荒野」で、どれほどの母が泣いたことか。

太平洋戦争が終わって何十年もたってから、息子が死んだ戦地に行った八十歳の母は、「だれもこないで」と人を遠ざけ、一時間ずっと泣いていたという。

そして「平和憲法」が公布されたとき、どれほどの母が、ほっと安堵の息をついたことか。 青空を見上げて、雲のかなたに、亡き夫を思い、亡き子供をしのんで、「もう日本は、二度と、こんなばかなことをしないんだって。よかったね。よかったね、」とつぶやいたことか。

母たちの無料の涙の代価を払って、手に入れた「平和憲法」である。しかし、その精神を実行しているのは、残念ながら日本ではなく、コスタリカなのである。

「平和憲法」はもう古いと言う人がいる。「時代に合わない」と。
私はそう思わない。反対に、新らしすぎるのだと思う。新しすぎて、国民がまだ、先駆的な精神にまで成長していないのだ。

“憲法にふさわしい国民”にまで向上しなければ、猫に小判になってしまう。・・・先生の「平和憲法」への思いが伝わってくる。
           お願い 「平和憲法」を守って。・・・
                      


[432] 私の好きな歌 投稿者:蓮華 投稿日:2004/05/24(Mon) 11:02:14

1.流れる涙あるかぎり まだ悲しみに耐えられる。あなた   よ 心に太陽を燃えている。若い命を信じようよ 呼 ぼうよ     呼ぼうよ 太陽を 涙の谷間に太陽を                                                         2.愛されないと泣くよりも 愛してゆこう どこまでも  あなたよ 心に燃えている 若い心を信じよう!呼ぼうよ 呼ぼうよ 太陽を 涙の谷間に太陽を


[431] Untitled 投稿者: 投稿日:2004/05/23(Sun) 05:05:53

【無題】

オマエのココロとカラダは脳内化学物質によって支配されている。
今日も朝からドクトル処方のセロトニンとノルアドレナリンを注入。
ささ、これで今日も万事快調だぜ。

絶望も歓喜も脳内電流による虚妄らしいよ。

「だったらさぁードクトル、最高の電流を流しておくれよ」

遺伝子の螺旋階段をトコトコ♪
遺伝子の螺旋階段をトコトコ♪

Dr.A「ドクトル、コイツの欠陥性は致命的ですぜ」
Dr.B「忌憚無く言うが、オマエの螺旋階段は妙に歪だなぁ、
歩きにくいったらありゃしねえ」

「ドクトル、僕は螺旋階段の欠陥性を修復するテクニクスを手に入れたんだ」
「御心配は無用、妙音の粒子さ。この命の粒子の中に希望は託されてるんだ」


[430] Untitled 投稿者: 投稿日:2004/05/10(Mon) 00:04:57

【無題】

朝っぱらアリガタイもんだネ
毎日毎日、“今日の運勢”

「・・・そして牡牛座のアナタ!!
残念ながら今日もブービー12位!!
あなたの突発的で奇異な行動が、
周りの人に迷惑かけるかも・・
ラッキー・カラーは、限りなく黒に近い白!!
ラッキー・アイテムは、限りなく長いマント!!」

ボクは歩く、チャコール・グレーのマントを引き摺りながら。
ボクは歩く、マントを踏みつけられてた時、己の存在を実感しながら。

ボクは求める、その滑稽さに世界中からの喝采を
ボクは求める、その滑稽さに世界中からの嘲笑を


[489へのレス] Re: 私の履歴書H番外編(宗門問題) 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/14(Mon) 21:55:30

ありがとう御座いますm(__)m


[491へのレス] Re: 私の履歴書J折伏編 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/02/17(Thu) 06:19:00

ROMLINさん、ありがとう御座いますm(__)m

もうじき阪神大震災について書かねばならないので、また暗い書き込みになってしまいますが、道か宜しくお願い致しますm(__)m


[491へのレス] Re: 私の履歴書J折伏編 投稿者:マウス 投稿日:2005/02/26(Sat) 09:30:12

大変なご苦労が、あったんですね。それを乗り越えてきたことは、すばらしいです。学ぶべきことが多いです。

つらいことは、無理せずに書かないほうが良いかとおもおいます。病状が、悪化するのが心配です。しばらくゆっくり休んで、気分転換でもして下さいませ。


[504へのレス] Re.お待ちしていました 投稿者:シゲキュラ 投稿日:2005/04/14(Thu) 14:38:55

2005/04/11(Mon) 15:59:52
 ペヤングさんの、私の履歴書続編を心待ちにしていました。

 村山四月会内閣では、特に白川自治大臣を中心に池田先生を社会的に葬ろうと画策の動きがありました。そして、いよいよ、池田先生証人喚問の手続きに入ることを察知した社民党の山花氏たちのグループは、社民党離党と新党結成に向けて動き出します。

 1995年1月17日、衆議院予算委員会で池田氏証人喚問決定決議をする予定だったようです。そして、山花氏たちの側は、最初は7名が離党し新党結成の呼びかけをして、社民党良識派40名前後が参加する予定だったようです。

 新進党とその社民党良識派の40名が連帯して、池田氏証人喚問の阻止と村山四月会内閣を倒閣する予定だったのですが、阪神・淡路大震災で、その「池田氏証人喚問」と「村山四月会内閣の倒閣」の両方が吹っ飛びました。
   


[504へのレス] Re: 私の履歴書K阪神淡路大震災編(編集版) 投稿者:Jonathan 投稿日:2005/04/14(Thu) 22:40:17

ペヤングさんの連載は大変素晴らしいもので、私の友人にも、読むことを勧めています。

 阪神淡路大震災のときは、私は、大学に在籍していましたが、大学ほったらかして、必死にボランティア活動に励まさせて頂きました。
 創立者のお心遣いや、友人の気遣いで、「安否確認」の電話(主に着信音)が、アパートの留守電にテープが一杯になるまで入っていましたが、そんなことはつゆしらず、私は、皆で学会員の家を一軒一軒まわって、その近所の方のために、救援物資を届けたり、散乱した廃棄物どけたりして回っていました。だいぶ後になって大学の職員から家に電話があって、やっと心配されていたことに気づいた次第です(^^;
 創価学会からの救援物資は、赤十字の次に早かったし、会館が被災者の避難場所として、余震から皆を守ったのは、これはほんとにすごいことだと思います。
 あの時、たくさんの近所の人、一般のボランティアの方々に、ボランティアとして活動することの大切さを教えて頂いた次第ですm(__)m


[504へのレス] 追記候 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/04/15(Fri) 06:51:55

比較的震災のダメージが少なかった北区では、「男子部で何かしよう」と区男中心に震災救援物資の整理や運搬等行いました。

兵庫文化での「物資配送」
東灘区の「神戸講堂」で物資の整頓など・・・

学会の会館は全て無事でした\(^o^)/
それと、半壊した灘区の実家は、修理に500万かかる(@_@)といわれて、叔父の自営も芳しくなく、結局叔父一家は姫路に引越し、母屋は解体し、プレハブも人手に渡ってしまい、幼少から楽しい思い出があった灘区の大きな家は無残な姿に変貌してしまいました(ーー;

叔父は、震災以降、借金を抱えて四苦八苦してます。
震災以降、ほんとに仕事が減ってしまったそうです(ーー;

将来、叔父は私が折伏します!


[504へのレス] 教えて下さい 投稿者:風来坊 投稿日:2005/05/07(Sat) 16:51:21

という事は、自民、社会(今はないけど)の中には、かなりの良識派の議員さん方が、存在すると言う事ですね。
もっとも、そういう方達が、端に追いやられている、或いは、口を閉ざされていた、そんな気が私はしていましたが。

>私としては、私たちが担いでいたおやじさんの自民離党と、山花氏のリベラル新党結成が吹っ飛んだことが、とても残念だったのです。

この件とその後をもっと詳しく知りたいです。
ここは、文学のBBSですし、生命哲学のBBSの方ででも、お願いしたいと思います。
もちろん、ご本人さん方に差し支えない内容にてで結構です。(2003年の暮れにも、大きな動きがあるはずだったんですよねえ、別の件かも知れないですが)


[506へのレス] 訂正m(__)m 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/04/17(Sun) 22:38:40

世親障害者3級→精神障害者3級m(__)m


[506へのレス] 再度訂正m(__)m 投稿者:ペヤング 投稿日:2005/04/21(Thu) 20:32:11

ボーナス500円→300円の間違いですm(__)m


[523へのレス] Re: my way, my dream. 投稿者:ゆきいちご 投稿日:2005/12/25(Sun) 18:02:47

感動しました・・
心にしみる素敵な詩ですね・・
vol de nuit さんのお幸せを心から祈っています。


[524へのレス] Re: 紙切れがお好き 投稿者:ブラン 投稿日:2006/02/02(Thu) 09:29:17

おもしろい詩をよませてもらいました。
ついトルストイの民話集をおもいだしました。
『イワンのばか』(岩波文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003261925/503-1968100-2202365

トルストイというと『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』のような大作を連想しますが、わたしはむしろ彼の民話集に魅力を感じます。
その一篇「人にはどれほどの土地がいるか」は、欲ばり男のあわれさをよくあらわしています。


[429] 私の生あるかぎり君を忘れません(6) 投稿者:Senegal 投稿日:2004/05/06(Thu) 22:42:31

バイクの組み立は、簡単に終わり、エンジン始動となった。
ブルルン〜ブルルン〜ブルルン〜
なんとも軽やかで、余裕のある駆動音であった。
「パリダカにね、フォルクスワーゲン・チームが出た時、支援用に活躍したバイクだよ」
(パリダカ=パリとダカール間のサハラ砂漠越えをはさんだ自動車レース)
「ドイツ製・・・」と私がつぶやくと、
「それがねぇ、フランス製」と従兄弟は、笑いながら私のつぶやきに答えてくれた。
「えぇ〜!何で!」
「フランスのアルザス地方って知っているかい」と、従兄弟は尋ねてきた。
「ドイツとフランスの国境地帯だね」と私が答えると
「そう、もともとアルザスのブドウ農家の若者が、作業を楽にしたいと思ってね、考えついたのさぁ」
「どおりで、少し作業員風のバイクだと思った」と私が笑いながら答えた。
「おぉ!茂ちゃん、今日であってから、はじめて笑った!」と、従兄弟は嬉しそうにしてくれた。
そうだ、私は、1月17日の震災以来、笑いを忘れていたのだ。

ある年のクリスマス休暇でフォルクスワーゲン・チームのスタッフの一人が、独仏の国境を超えて、アルザスのワイン製造元を尋ねた時、農家の青年が使っていたバイクと出会うことになる。
そのスタッフは、ひらめくものがあり、その農家の機械好きの青年に頼みこんで、フォルクスワーゲンチームのために、特注バイクを数台も作ってもらった。

レース開始となり、サハラ砂漠での補給戦では、フォルクスワゲン・チームは、その特注バイクの威力で他のチームを圧倒した。
他の支援車両が砂漠の砂に難渋していても、フォルクスワゲン・チームの車輪が球形であるため、同じ砂漠の砂の上をするすると走行するのである。

従兄弟は、まるで見てきたように瞳を輝かせ語ってくれた。
「・・・そうか、この人は、こんな一面があるのか・・・」と、私は従兄弟がとても頼もしく思えた。

いよいよ、出発である・・・
祖父の漁船の接岸を許可して、施設を利用させてくれているワイアーロープ工場の敷地を出て、一路、西宮を目指した。
今も、その時の町々の光景と、特注バイクのエンジンの駆動する爆音は忘れられない。

荷台に乗っている私は、従兄弟に続けて聞いてみた。
「兄ちゃん、このバイクとの出会いはセネガルと以前聞いていたけど何処の町で」
「ああ、それが、ダカールの町でだよ」
「セネガルのダカールか、ぼくの生まれたところ・・・」とてもなつかしい、
私を育ててくれた乳母のマリーさんと御主人のシュルベインさん、
父の秘書兼ボディーガード兼運転手だったアムディさん、
そして国立水産試験所を切り盛りしていた主任のポール・ディアッタさん、
多くの優しい人々の顔が何故か走馬灯のように思い浮かぶ。
「漁業実習でさ、実習船がセネガルに寄港した時、わずかな自由行動時間で町を歩いてたら、このバイクに出会った」と、嬉しそうに語ってくれた。
このバイクは、自動車部品や漁業機械のジャンク屋の奥に、大切に飾ってあった。
目ざとく見つけた従兄弟に、店のオーナーは、
「お客さん、お目が高い」って感じで、そのバイクを説明してくれた。

「いくら?」と従兄弟が尋ねるとオーナーは「お兄さん、500フラン(仏フラン)でどうです?」(当時のレートでおそらく5万円ぐらい)と答えた。
従兄弟は「よっしゃ!おっちゃん!買った!500フランでウィねぇ」と応じ、即決した。
従兄弟の賢さは、すごかった。
相手のオーナーがフランス語でしゃべり、私の従兄弟は最後まで日本語と片言の英語で商談したのである。
しかも、従兄弟は当時、水産高校3年生の17才の少年だった。
私の父の親友で、国立水産試験所の主任技官のピエールさんを呼び出し、彼に預かってもらったのである。
ピエールさんにすれば、大切な親友の甥の頼みであるのなら、預かって、彼の友人の税関関係者に手続きを頼むぐらい、いとも簡単なことだった。
しかし、ムシュ・オオバヤシの甥と名乗る17才の少年が、頼みがあると電話をかけて来た時、ピエールさんは、さぞかしびっくりしたことだったであろう。
数ヶ月後、フランス経由の船荷便で、従兄弟のもとに届くこととなった。
度胸のすわった少年は、今は、大型漁船の頼られる船長としてカナダ沖のドッカーバンク漁場まで行っている。
彼もまた、後に私と同じく日蓮仏法の門を叩くことになり、同志となるのだが、そのことは後日に述べたい。

バイクは神戸の町々を抜けて西宮へと一路、疾駆していた。
私はとても安定感のある乗り心地の良い荷台に乗り、きょろきょろと町々の光景を見回した。
町々は震災で破壊され、電柱は折れ曲がり、家は道に飛び出し、ビルは倒壊して道を占領している。
なんとも無残な光景であった。
その中を、従兄弟が「茂ちゃん号」と名づけてくれたバイクは軽やかに駆動音を轟かせ走り続けていた。


[427] あの時 投稿者:ありのまま 投稿日:2004/04/25(Sun) 23:57:19

 お母ちゃん、あの時いったいどこに逝くつもりやったん?

 何本ものチューブにつながれながらも 必死で起きようとしてたよね。

 「行かなあかんねん。行かなあかんねん。」て

 何度も起き上がろうとしていたよね。

 あの時、ほんまに いったいどこに逝くつもりやったん?

 最後まで別れへんかったわ。

 家に帰りたかったん?

 私の手を振り払うほど 私の事きらいやったん?

 ごめんね。お母ちゃん、

 逝くまで苦労かけっぱなしで逝かせてしまって。


[424] 私の宝物 投稿者:ありのまま 投稿日:2004/04/25(Sun) 23:22:20

泣いている、私の髪をなぜながら、「いい子いい子」

してくれた私の3人の宝物。

私は、一生忘れない。

きみ達がいたから今の自分があることを。

ありがとう。私の宝物たちよ。


[423] 君へ 投稿者:かずや 投稿日:2004/04/22(Thu) 06:47:09

君の事を一年近く見てきて

私の思っているような人ではないことに気づいた

思想も全てが違う君とは合いようも無い

ただ今は君がほうぼうに染まりきらないようにと願っている

同志だから・・・


[422] かけがえのない君へ 投稿者:りょうママ 投稿日:2004/04/17(Sat) 13:55:15

「お母さんに おみやげ!」・・・って
愛しい 君の ちっちゃな手のひらから 出てきたものは
ふきのとう

ありがとう

そして それは 四葉のクローバーで あったり
ペンペン草で あったり

夕日が沈み 遊び疲れて 家路に向かう道端に
君が 見つけてくれたものは
何にも 増して
きっと 金色に 輝いていたんだね

かけがえのない君と その心へ
ありがとう ありがとう


[420] 希望の光を 投稿者:スミダー 投稿日:2004/03/10(Wed) 23:26:30

我が師は、「我一人、正義の旗持てり」と言えり
その師も年老い、それでも最前線で闘いの指揮を執られている
激務に激務を重ねられ、命を削る思い それ、孔明の如くなるか
我らの闘いは 敗れることもできない 人類救済なり 永続革命なり
なれば、「我一人 正義の旗持てり」の 次の我一人とは誰なのか
我とは誰なのか
牧口先生には 戸田先生がおられた 戸田先生には池田先生がおられた
池田先生には誰がいるのだろうか

本門の青年部よ 青年よ 力をつけよう 闘争の中で人格を鍛え上げて
本当の正義の旗を持ってほしい 希望の光になってほしい
我一人の 「我」になってほしい
私はその人を全力で支えに支え切っていきます
最敬礼をもって 迎えるでしょう
その人こそ 人類を照らす希望の光

http://hccweb1.bai.ne.jp/sumida


[419] 「正義の旗の下に」 投稿者:DASH 投稿日:2004/02/26(Thu) 22:36:47


悪が人を殺したので 正義が人を殺した

報道に洗脳される人 正義を洗脳する国

当事者ではない人の 他人事の批評激論

「どうか戦争をやめて」と下を向く子供

「お母さん怖いよ」と母に抱きつく子供

「国の為だから」と武器を手にする父親

知恵と英知と科学を誇る「人間」の現実

全人類の「戦争放棄」という理想の社会

高等精神を育むための教育と歴史的反省

地球は怒り

月は涙する


[418] Untitled 投稿者:飛鳥 投稿日:2004/02/26(Thu) 19:40:53

純心のこころが、知識に負けるわけありません。
もし、負けたならば、この仏法は間違いだって
ことです。

I LOVE YOU 私の人生
I LOVE YOU 全ての生命に

法華経の智慧よ
日蓮仏法の力よ
私とともに戦ってください

牧口先生
戸田先生
池田先生


[417] Untitled 投稿者: 投稿日:2004/02/20(Fri) 11:36:04

おいそこの狂人!この地球を月から俯瞰して見ろよ!

アメリカを、イラクを、アフガンを、
コンゴを、ニカラグアを、コロンビアを
そして日本を!

この世界はどうやら「狂っている」

この「狂った世界」から
私を「狂人」として認知して下さるとは、
何たる誉れ!
何たる賞賛!
何たる歓喜!


[417へのレス] Re: Untitled 投稿者:Jonathan 投稿日:2004/02/26(Thu) 01:52:34

 「狂人」は、同じく僕のほめ言葉ですねw
 ヘルマン・ヘッセの『荒野のおおかみ』は、「狂人のためだけに捧ぐ!」とw


[416] Untitled 投稿者: 投稿日:2004/02/18(Wed) 15:00:24

きょう、さんぱつにいってきましたよ。パチパチ拍手、頑張ったね!
きょう、けいたいでんわをかってきましたよ。パチパチ拍手、頑張ったね!
きょう、たばこをかってきましたよ。パチパチ拍手、頑張ったね!

ところで、淳くん?

愛する父さんの汗と、僕の切られた髪は等価ですか?
愛する母さんの脳動脈瘤の痛みと、ピコピコ着信音は等価ですか?
愛する妹の笑顔と、煙草のヤニは等価ですか?

夜はダニと仲良く横臥する。
明日はダニを抹殺しよう。
太陽の匂いと友の死骸。

円町で、一人の浮浪者とすれ違う。
その動物的な臭気は僕にとって、あまりにも気高い。

井上さんとの電話越し、
子供の声はピエール・バルーの音楽だった。

全ての人に「僕」を殺す権利を与えよう!
僕はヤニに塗れた地獄の底から、
この善良で勇敢で慈悲深い屠殺者を心から賛嘆し全力で弁護しよう!
脳味噌に巣喰う悪魔と抱擁し、欠片の良心はゴミ箱へ!


[416へのレス] Re: Untitled 投稿者: 投稿日:2004/02/18(Wed) 15:56:29

尊敬する井上様に送ります。

今日、陽光を浴びながら、
ブツクサと湧き出た
独り言を文章化した駄文です。
タイトルはつけられませんでした。

「社会」は「僕」を受け入れ無い。
「僕」は「社会」を拒絶する。
この埋めがたい隔絶。

脳味噌に巣食う悪魔さんは、
沢山の口実を与えてくれます。
とっても便利な言い訳を作ってくれます。
「ダルイんだろ、だったらダニと仲良く寝ちまいな」
「道徳だ?倫理だ?思索だ?んなもん放棄しちまいな」


[416へのレス] ありがとうございます。 投稿者:井上 投稿日:2004/02/18(Wed) 22:00:15

詩を送っていただき誠に有難うございます。淳さん私は「尊敬する井上様」と言っていただけるほどの人間ではないと思います。
 詩の評論などもできる人間ではありません。電話の子供の声、ピエール・バルーのCDだったんですね。子供の声に気づいてはいましたが聞きそびれてしまいました。

 >「社会」は「僕」を受け入れ無い。
 >「僕」は「社会」を拒絶する。
 >この埋めがたい隔絶
この心の動き、とても分かると言わせてください。

 時々思うのです。地が足についていない、何かから置き去りにされた感じ、これは私にとってはそこ、ここに生きる生きものとの断絶が始まっていることからくる感覚ではないのかと。

>善良で勇敢で慈悲深い屠殺者

たちは、きっと訓練され街中に溢れるでしょう。そうなる前に僕たちは覚醒しなければいけないのです。

的外れなことを書いているかもしれません。その時は申し訳ありません。今日はこのへんで失礼します。PS.戸田先生が信仰をはじめると、心の奥が安心していくんだと(趣意)仰っています。そうなりたいと思います。


[416へのレス] Untitled 投稿者: 投稿日:2004/02/19(Thu) 13:57:28

井上さんの作る詩が大好きでした。
あんな詩が書けたらといつも思ってた。

上の拙い駄文は。
僕が今「生存していることの価値と意味」を見出せなくなってしまった悲しみです。

僕の掛け布団に生息するダニは、時々に僕を喰ってくれます。
しかし、今日このポカポカ陽気のもと、
僕に「生」の微塵の価値を与えてくれた、友。
ゴメンヨ、二週間ぶりに容赦の無い天日抹殺するよ(自嘲)
僕の自己犠牲的精神はダニくらいしか生かされないのだよ(自嘲)

どうか僕が存在していたという、紛れも無い事実に価値を下さい。
僕の「生」に価値を下さい。
僕の「死」に価値を下さい。
愛する者の善意を喰うだけの醜悪で恥知らずな、喰人者、真性のカニバリスト。
そのくせ、動物的な臭気が薄く、ただヤニの臭気が漂うだけ。

しかし僕とすれ違った浮浪者は闘っていたんです。
「ホームレス」という誤魔化しの表現とは不釣合いな
真に誇り高き「浮浪者」!伸ばし放題で白髪交じりの髭、
汚い衣服、途轍もなくデカイ鞄には鍋。
背は曲り、顔はシミと深い皺、そして酷い臭気。
僕は彼を見て、煙草をふかしすれ違う自分が急に恥ずかしくなったんです。
確かに彼は確か必至で「生きる」ためにに闘っていた。

僕には悪魔(=鬱)に甘える心、
それによって罪を免責されようとする、
汚い心が確かにあるんです。

― 絶望を回避するために、可能性を創れ ―

誰かが言ったっけ?

僕は恐らく自殺は出来ない。
しかし不可抗力により「死」の渇望する。
誰か僕を殺してくれないか?
「死」に価値を与えてくれないか?


[416へのレス] Re: Untitled 投稿者: 投稿日:2004/02/19(Thu) 14:06:44

すみません、焦って書いたので日本語に間違い多いですね(笑)
レスにもなってませんね(笑)詩ではなく、独白です(笑)
コントロールの効かない躁状態です。
いつも井上さんとの会話に救われてます。

いくら稚拙なものであっても、表現することを恥じまい。


[416へのレス] Re: Untitled 投稿者:井上 投稿日:2004/02/20(Fri) 08:59:18

>僕には悪魔(=鬱)に甘える心、
>それによって罪を免責されようとする、
>汚い心が確かにあるんです。

こう言える淳さんは、潔いと思います。
ぼくはある日「鬱を否定的に見ないほうがいいですよ」と主治医に言われ、戸惑いと何がしかの光を見出した気持ちでした。
初期の治療をおざなりにしたため、慢性化し、働く現場から離れてもうすぐ二年です。
 「どこも悪いようには見えないけどね」といわれることもよくあります。僕なりのキーワードは現実で失った自信の回復です。そのためには自分自身にどういう境涯であろうと自分自身にOKを出す癖をつけようと思っています。
 仰るよう表現することはとても大事だと思います。表現がいかなるものであれ表現することは一歩魔をうちのめすことにつながることだと思います。


[416へのレス] Re: Untitled 投稿者: 投稿日:2004/02/20(Fri) 10:12:40

>僕なりのキーワードは現実で失った自信の回復です。
>そのためには自分自身にどういう境涯であろうと
>自分自身にOKを出す癖をつけようと思っています。

僕にとっての「自信」とは、「社会性の回復」
換言すれば「社会に価値を還元出来る存在への回復」です。

もう他者との相対化は止めよう!
「昨日の自己」と「今日の自己」とを相対化し、
「前三後一」でOKさっ!
いや現在は「前一後一」ってとこかな(笑)
そう!この「後一」を許してやろう。
次は「前二後一」を目指せば良いのだから(笑)

心から感謝と尊敬、憧憬の念を井上さんに。
また、рオます(御迷惑でしたら、どうか・・)

(追記)
★皆様

文学のBBSから、心のBBS化させて申し訳ありません。


[415] 永遠の別れ 投稿者:S 投稿日:2004/02/17(Tue) 03:41:31

価値判断の基準は
お金

意見に従わなければ
感情的に
心を抑圧し続ける
人間としての意思を貫けない

私の父

頑なに
そんな生き方を貫いている

愚かで哀れな父とは


永遠にさよならしたい


[414] kokotiwarusa 投稿者:桃華 投稿日:2004/02/13(Fri) 03:54:47

敏感な
私の身体と心から

生命の心地わるさが

吐き出され続けられている


・・sindoiyo...


[412] DASHさんのご友人へ 投稿者: 投稿日:2004/02/11(Wed) 01:08:45

『白い自転車』  詩:オラシオ・フェレール

あんたも見たよ。絶対にあんただっていつか見たはず。
あのひとりぼっちの、すごく孤独な夜になると、
街でひとりがばってた、あの自転車乗りのことよ。
ズボンのすそを靴下の中によくよくたくし込んで
耳までベレー帽をかぶってる。
気がついた?
誰も知らない、ほんとに、一体どこから来たのか、
とにかく、もし彼が通るのを見たら、
うんと愛をこめてみてやってね、
もしかしたら、二度目があるかも・・・・

白い自転車を持っていたヤセっぽち
ポルカを口笛で吹きながら、街を横切るのだった
その車輪は見るからにかわいそう、小さくて四角くて
哀れな彼のヒゲはペダルにからんでしまうほどだった
ハンドルのところには山羊の角がついていて
後ろに引く小さな車には魚が一匹とパンひとつ
ゼイゼイ息を切らしながら坂を上がって行った
彼自身で自分を励ましていた、ペダルをこぎながらこう叫んで

「ヤセぽっち、心を込めろ
お前には判っている、かち取るということは
到着することじゃない、続けることにあるんだ」

みんな その間 歩道に立って笑い転げながら、
死ぬほど彼に拍手するのだった!
そして彼は、小説に出てきそうな素敵な目で、挨拶し感謝した

その後 わかんない ほんと!なんという不吉な怒りで、
どうしてそんなことになってしまったのか、知らないうちに!
ヤセっぽち、哀れなヤセっぽち!後ろから襲って
私たちはその白い自転車を壊してしまった
メチャクチャに、思いっきり、しっかり、本気で、
バラバラに壊した・・・最後に私は見届けた
彼はヒゲを噛みながら叫んだ
「おれがみんなを救ったんだ!・・・・・」
自転車を見て にっこり笑って 歩いて去っていた

ヤセっぽち、もう悲しまないで、
すべてが無駄ではなかった
信念をなくさないで・・・
ペダルの付いた彗星に乗って
あなたはきっと帰ってくるはず。


DASHさんの詩に酷く心打たれました。
僕は詩が書けませんので、
愛する詩人の詩をもって
御友人を追善致します。


[412へのレス] Re: DASHさんのご友人へ 投稿者: 投稿日:2004/02/11(Wed) 03:16:19

メチャクチャに、バラバラに壊してしまった「白い自転車」を
ピカピカに磨いて直してあげたい。
そして、いつか三井君がにっこり笑って、
走り回れるように。

「すべてが無駄ではなかった、信念をなくさないで・・・」

「かち取るということは到着することじゃない、続けることにあるんだ」


[412へのレス] Re: DASHさんのご友人へ 投稿者:DASH 投稿日:2004/02/11(Wed) 06:42:24


淳さんへ 

はじめまして淳さん。
追善の詩を返していただき、ありがとうございます。
そして、激励をありがとうございます。


[412へのレス] GAUさんへ贈ります。 投稿者: 投稿日:2004/05/19(Wed) 16:23:02

難病をおして、選挙に走り回り、その途で倒れたGAUさん
やせっぽちのGAUさん。
僕はすべてが無駄でないと証明するために
出来る限り奮闘します。


[411] 「亡き友へ」 投稿者:DASH 投稿日:2004/02/09(Mon) 22:01:52


若き血潮に燃え 共に戦いし友よ
我らの信じる思想こそが正義と信じて
寝る間も惜しみ休みもとらず戦いし友よ

盲腸という今の医学では問題にならない病を
少しの休息で完治するものを
私の制止も聞かず

ただ にこやかに
その静かなる山のごとき責任感のゆえ

自分には参政権はないけれど
きっと信じている
あの人たちを信じている
その為に戦うのだと

戦い半ばで去って逝った友よ

この一票の重さをかみ締めて
西に東に駆け回り戦いし日々

我らの信じた正義は踏みにじられた

こんなことのために
君は命を懸けたんじゃない

仏前に向かい君になんと報いればいい?

君の命の重さをかみ締め涙する私を君はなんと見る?

                亡き友、三井君へ送る


始めまして
私的な詩ですみません。
個人名がありますけれどお許しください。


[408] 生きる苦しみ 投稿者:S 投稿日:2004/02/04(Wed) 00:29:37


「大丈夫、大船に乗ったつもりで・・」と
電話で一言

そんな
表面的な励ましの言葉を
かけてもらった位で

簡単に、安心できる
私の生命ならば

こんなにも
長く、深く、強くーーー


生きる苦しみを背負ったりはしない


[407] Blue shinin’star 投稿者:銀河 投稿日:2004/02/03(Tue) 00:50:44

貴方は 青く輝く 恒星の様な人
この宇宙を吹き荒れる 嵐の中に
熱く 静かに 変わらぬ炎 燃やし続けてる

Blue shinin’star
太陽よりも熱く この世界を照らして

もはや すべての記憶をもってしても
辿り着けない 場所にいる人よ

たとえどんなにお互いが 変わっていってしまったとしても
貴方に、かつて愛されたこと
私はけして忘れない

貴方のいる 高貴な世界に
たとえ私が近づけなくなったとしても

この宇宙の片隅に それだけは残るだろう

いつか時空を越えて もう一度めぐり合おう。
そして時空の彼方で 永遠という音楽を聞くだろう


[404] アナタの望み〜わたしの存在よりも大切なものがあるんでしょ? 投稿者:momo 投稿日:2004/01/31(Sat) 23:09:35

わたしがいなければ
お金がかからないでしょ?

わたしがこの世からいなくなれば
みんな楽になるでしょ?

アナタのほんとの想いを
わたしは全部見抜いているよ

親孝行なわたしは

だから
自分から死を望むんだよ


あなたの望み叶えてあげたい



[404へのレス] Re: アナタの望み〜わたしの存在よりも大切なものがあるんでしょ? 投稿者:ライムライト 投稿日:2004/02/04(Wed) 23:22:33

親は、どんな子供でも自分より先に、逝ってしまうことほど
悲しいものはないんだと、亡き父がよく言っていました。
それは親孝行ではなく、一番の親不孝だと・・

きっと現実の話ではないと、信じつつ、あえて横やりを
入れさせてもらいました。失礼しましたm(__)m


[403] 私の生あるかぎり君を忘れません(5) 投稿者:大林 茂樹(Senegal) 投稿日:2004/01/30(Fri) 00:43:57

震災の翌日も、学園での授業は成り立たなかった。
代わりに、保健の先生から、負傷した人の傷の消毒方法や縫合などの応急処置を学んでいたと記憶している。
また神戸の姉妹校である女子学園の生徒たちのうち大阪在住者たちは、大阪校へ登校をはじめだしていた。

その日の午前11時ごろ、職員室で歓声と拍手が上がった。
早朝出発したライダー部隊が、全員、無事に神戸の姉妹校に到着した。
そして、支援の為に出発していた体育の谷川先生の運転する四輪駆動車も、交通規制をかいくぐりたどり着いていた。
谷川先生は、六甲山に熟知していた為、一旦、京都へ入り、丹波笹山から裏六甲へ出て、山道を走り、神戸へ入り込んだのである。
谷川先生の四輪駆動車は、ライダー部隊の帰還用ガソリンを届けなければならないという重大な使命があった。
それゆえに、「自分なりの生徒を守る死に物狂いの戦いだった」と、後に語っていたと記憶している。

一刻も早く被災地に行きたい・・・ただ、ただ、それだけを、私は心に念じていた。
昼過ぎ、校内放送で「1年C組の大林君、至急、応接室へ行きなさい。繰り返します。1年C組の大林君、至急、応接室へ行きなさい」と命じられた。
とにかく、走りに走って、応接室に駆けつけると、父方の祖父と伯父、従兄弟の三人が、にこやかに校長の橋本先生と歓談していた。

橋本先生は、「君のおじいさま、伯父様、そして従兄弟さんたちに心から感謝していました」と、優しいまなざしで語りかけてくれた。

橋本先生によると、ライダー部隊の輸送量では、限界があり、また、大阪校関係者の人員を神戸まで運べない現状では、船による輸送が一番妥当と思われたから、祖父たちの申し出をありがたく受けることになったそうである。

そして、緊急をようするので、今すぐに、救援物資を届けることになったから、私にも参加するようにということのようであった。

大阪港の施設も震災で破損していたが、従兄弟が考案した浮き桟橋で、祖父の大型漁船は接岸出来ていた。
従兄弟は当時19才で、県立水産高校を出て、祖父の家業を担っていたのである。
普段は、祖父が「何(なん)にも船長」、伯父が「言うこと機関長」で、二人が反目して危険な漁になることもあったが、最新の漁法を身につけた従兄弟が家業に参加し出した時から、改善出来るようになっていた。

鮮魚の入荷は前日から皆無の中を、祖父の船が大量の鮮魚を卸商に届けたのである。
そして空になった船に救援物資と人員を積んで、午後1時過ぎに神戸に向かった。

三時間ほどで、神戸市東灘区の海岸に到達した。
ワイヤーロープを作っている工場の港湾施設を利用できたので、短時間に物資を運び出した。
そして、谷川先生の四輪駆動車と高校生たちのライダー部隊のゲンチャリが、荷揚げした物資と人員を、ピストン輸送したのである。平時なら、ゲンチャリの二人乗りは取り締まりの対象となるが、非常時とあって、お咎めなしだった。

大半の人々は、神戸の姉妹校に留まる人員だったが、私は帰りの船に乗って帰還するように命じられていた。
近日中に「フランスの姉妹校からの救援隊」が来るので、その通訳と案内係り要員を務める予定だったからである。

忙しくピストン運転している人々の荷物の受け渡しが終われば、長い待機時間を退屈に過ごさなければならなかった。

その時、従兄弟が私にそっと耳打ちしてくれた。
「ここを抜け出そうか?」
「えっ?」といぶかしげに私が言うと、
「西宮の彼女のとこへ行きたいんとちゃうのか?」
「うん・・・でも今は・・・」と私が言いかけると遮るように、
「おれが連れて行ったるで」と従兄弟が言ってくれた。
「でも、ここから遠いで、兄ちゃん、どないするの?」と私が言うと、
「とっておきのバイクをなぁ、本当は、茂ちゃんにやるつもりで大切にしてあったけど、持ってきたで」と船底から、サハラ砂漠でも走破できるという箱型で車輪がボール状のような形をした自慢のバイクを出して来てくれたのである。


[400] Mをよろしければお使いください。 投稿者:井上 投稿日:2004/01/26(Mon) 22:13:09

Mさま

はじめまして。「M」で投稿させていただいていましたが。
よろしければMをお使いください。私は井上で今後書き込みます。
気分転換の必要な時期でしたので・・・。


[399] MはMと区別がつかないのですが・・・。 投稿者:M 投稿日:2004/01/26(Mon) 22:00:55

398のM氏は元壮年MのMのMとは別の方です。必勝の誓いのM氏の詩を賛嘆しつつ。


[398] 必勝の誓い 投稿者:M 投稿日:2004/01/26(Mon) 04:24:26

強い
死にたい衝動



深い
異性への拒む想い

使命を深く自覚し

必ず突き抜け
精神闘争の勝利を

我が生命と
そして

心より尊敬する
我が師匠に
深く誓います


[395] いいたいこと 投稿者:スカイブルー 投稿日:2004/01/24(Sat) 06:02:28

誰のせいにもしたくない

ただもう生きる事に疲れただけなんだ

あきらめたわけじゃない

でももう抵抗する力がないんだ

自分をわかってくれる人がいない

最愛の人にも理解してもらえなかった

強く生きようと思った

けどやはり一人では生きていけない

いつしか心がどんよりとして

すべてどうでもよくなっていた

ただ生きるだけ

ただ生きるだけ

ただ生きるだけ

そんな毎日にはもうあきたんだ

所詮は自分を生かすのも殺すのも自分しだい

変えていくのも自分 つらくて苦しむのも自分

もう一度だけ・・

一握りの希望を持って

蘇生というドラマを演じるために

今 もう一度再起を誓う


[394] ほんとの僕 投稿者:桜梅桃李 投稿日:2004/01/23(Fri) 14:20:13

どうしてだろう

君の前で うまくしゃべれないのは・・

君が 美しすぎる?

それもあるよ

でも 子供のころの心の傷・・

憎きトラウマとなって僕を苦しめるんだ

もっと リラックスして君と接したい

ほんとの僕は こんなんじゃない

ただ 打ち解けるまで

少しだけ時間が かかるのさ


[393] 嫌いですか?なんとも思ってないの 投稿者:みゆう 投稿日:2004/01/23(Fri) 14:05:59

君は何かあたしを避けてるような気がする

これは、勝手な思い込みなんだろうか

君をはじめて見た

守ってあげたいと思った

自分もそんなに強くないのに

また心がゆさぶられてくるよ

君はめいわくかな

君を忘れなきゃいけないと

いつも思っているのに

だから、君からの何らかの返事がほしい

完全に忘れられるように


[392] 心の空洞 投稿者:桃華 投稿日:2004/01/21(Wed) 00:30:44

・・  ・・・

  ・・  ・・・

自分をtaisetuにするって

douiukotodarou?

ワカラナイヨ

悲しいけれど、ハートではワカラナイ

ハートでわかるwatasiになりたいって

kokoroの悲鳴が聴こえるよ
                                       ・・・ ・・                     
                  ・・・ ・・    



[390] Untitled 投稿者:みかん 投稿日:2004/01/19(Mon) 15:46:00

一体何を求めているのだろう、一体どこへ向かうのだろう、つらくて仕方がない時を経て


[390へのレス] Re: Untitled 投稿者:ゆうき 投稿日:2004/01/19(Mon) 17:23:13

そんな気持ち、よく分る。私も、同じような事、よく考える。


[389] もう一度 投稿者:飛鳥 投稿日:2004/01/16(Fri) 08:57:14


もう一度 仕切りなおし!

見合って
見合って

はっけよい!

のこった!!


[389へのレス] Re: もう一度 投稿者:シンカイギョ 投稿日:2004/04/03(Sat) 06:07:22

すごく久々にこのページに立ち寄りました。
この詩、すごくカッコイイです!!
グワっときました!
ありがとう!


[388] 帰郷、北東北 投稿者:いいぐる 投稿日:2004/01/15(Thu) 23:28:52

新幹線の扉が開きかつて慣れ親しんだ冬の匂いが流れ込んでくる。わずか一分にも満たない停車時間に感傷を振り払うようにホームに足を踏み出す。新しく近代的に建て変わった駅舎と再開発ですべての建物が取り壊された駅前広場に沿ったアンバランスな道を実家に向かって歩き出す。街に生気は感じられない。法改正による大型肉食恐竜の如き大規模店舗の進出と長びく不況は、客と店員が喧嘩でもしているのでは思うほどの喧騒と活気に満ちていた商店街をほぼ壊滅状態に追い込んだ。聞くところによると銀行に切り捨てられ運転資金不足から高利の金融に手を出し、最後は破綻した零細事業者などを中心に年に数件の自殺者が出ていると聞く。予算不足で再開発の完成図は、はなはだ心もとないらしいが立ち退いた家々には億を超える補償が入ったとのもっぱらの噂である。その一番の恩恵を受けたのは町の政治権力をもった人々の土地だったとも。こんな田舎まで弱肉強食我田引水が露骨にまかり通るのは現代日本の実相を顕しているものか?新年早々また首相が靖国を参拝した・・・また内外の民を馬鹿にした愚にもつかない言葉の遊びでごまかすのかと暗澹たる想いに耽りつつ歩みを進める。顔に冷たいものが触れる。一月だと言うのに降り出した雪が雨に変わった。

雨を避けるように少し眼差しを上げると空は日本海側特有の重苦しく澱んだ暗灰色。
遠くのぞむ国境の峠は冷たい霧に覆われその特徴たる九十九折りの道を望むことは出来ない。北国の重苦しい冬が街を被いつくしている。年末まで続いた仕事に疲れ切った重く軋む体を引きずり新幹線の座席にへたり込んだ。夏に帰るつもりが多忙を極めとうとう年を越してしまった。年に一度位は親の顔を見ねばとの心を義務感にまで堕ちてはならぬと言い訳けしつつも日々の生活に追われ暦は巻き戻すことのできぬ過去という時間の坩堝に恐ろしい勢いで吸い込まれて行く。ただいま・・・懐かしく古ぼけた引き戸を開けて声を掛ける。台所で家事をしている母、近年耳が遠くなり気がつかないようだ。再度呼び掛けると振り向く。ご飯は食べたの?まるでつい数時間前に出かけたばかりの息子に問い掛けるように声を掛けてくる。変わらぬ母である。とりあえず居間に腰を下ろし漬物をかじりお茶を飲んで寛ぐ。

しかし何度食べても北国の冬の漬物は何故これほど美味いのだろう。適度の塩気を含んだ、いぶりがっこ(燻製タクアン)を齧る。カリッ!ボリッ!たまらない歯ごたえの後に燻製の何ともいえない独特の香りが口いっぱいに広がる。続いて鉈漬(大根をまるで鉈で切ったように大きくザクザクと切った麹漬)を齧る。冬大根の薄い端に氷が着いている。冷たく、やや甘めのくせになる味と歯ごたえである。この美味さを何度も関東に持ち帰ろうと挑んでみた事があるのだが何度こころみても東北の入り口は福島県白河の関に魔物が住んでいてその旨味をすべてもぎ取ってゆき関東に入った頃にはただの不味い漬物にすりかえられているのである。どうやら白河の魔物にとって漬物は門外不出の禁輸品らしい。

お茶を早々に切り上げ、近くの高原の温泉に向かう。窓外、さすがに高度が上がると雪も多くなり寒い!日帰り入浴のカウンターでいつもの様に木戸銭を払い脱衣所で服を脱ぐのももどかしく雪のちらつく天然の大岩を配した露天風呂に冷えた身体を沈める。フゥ…一瞬の熱さの後にえもいわれぬ心地良さが全身を包み込む。溜まった疲れが硫黄臭い湯に溶け出して行くようだ。湯は濁って白い。外は0℃か?小雪が舞っている。何度か湯船に浸かり充分に堪能し湯上りに冷たいフルーツ牛乳をのどに流し込む。カァーッ!我ながら子供っぽいと思いつつも風呂上りは何故かフルーツ牛乳が飲みたくなる。

温泉を後にし実家に帰り着くと母が心づくしの夕餉を用意してくれていた。山里で何も無いと言いながら山菜のオヒタシと鍋が出てくる。旨い。子供の頃あれほど嫌いだった蕨やぜんまい等の山菜が妙にうまい。茹でた山菜に削り節と醤油、好みで少々のマヨネーズが乗っている。いつのまにか俺も大人になったものかとしみじみと考える。鍋はハタハタのしょっつるである。子供の頃は見るのも嫌になった冬の風物詩で
あったがその後乱獲がたたってあまり市場に出回らなくなったハタハタ。大き目のブリ子(卵)をほおばる。はたはたのブリ子特有の弾力と硬さ。プチップチッ良く噛まないと飲み込めない。子供の頃はこれでアゴが鍛えられてのだろう?しょっつる(魚醤)とハタハタと冬の甘い葱と田舎豆腐。シンプルな鍋なのだが旨い。ブリ子、葱、豆腐、身、またブリ子となかなか止まらない。間にふっくらと煮込んだ黒豆や数の
子、北海道の叔母が送ってくれたと言う肉厚の新巻鮭やニシンの昆布巻きなどの正月料理が次々と我が強靭なる胃袋に消えてゆく。ふぅ今年もまた血糖値との戦いだなぁ・・・反省すれどいつも本能に負ける己の業の深さを嘆きつつ今年も百キロまでの減量目標が遠い彼方に消えてゆく・・・

ほんのご相伴と飲み始めた麦酒が珍しくすすむ。窓の外に降り続いていた冷たい雨は夜になりまた雪に変ったようだ、これから先、田舎で母と一緒に過ごす夜はどれほど在るのだろうか?母の拷問の様な小言繰言に責立てられつつ夜は更けてゆく。窓の外の汚れをすべて覆い隠すように雪はしんしんと降り積もる。


[387] 私の生あるかぎり君を忘れません(4) 投稿者:大林 茂樹(Senegal) 投稿日:2004/01/15(Thu) 20:50:46

震災当日の午後は、私にとって、これからはじまるであろう重苦しく辛い日々のはじまりの時だったかもしれない。
普段は、チャイムとともにいっせいにはじまる時間のベルトコンベァーに載せられたような学園生活なのに、この日だけは、何もかもが違っていた。
北沢先生の話の途中で、クラスメイトの一人のお腹が「グゥ〜」と大きく鳴ったのだ。
「大きな音やんかぁ〜」という声がして、クラス全体が大爆笑して、私も思わず笑ってしまった。
その時、全員が昼食を忘れていたことにやっと気付いた。
「あっ、昼食がまだだったね。」と北沢先生が苦笑しながら言った。
「先生!お茶もらって来ます」と、慌てて、日直だった大野、芝原の両君が学園内にある大食堂に駆け出していった。

昼食は、祖母の作ってくれた弁当だったが、それを食べることを忘れていたのだ。

廊下にある内線電話を使って、北沢先生は、職員室の学年主任の森先生に「これから生徒たちに昼食を取らせます」と報告を入れていた。

やがて校内放送がはじまり、「手の空いている先生と生徒のみなさんは、昼食を取ってください」と生活指導部の井上先生の声がしていた。
その時、徐々であるのだが、学園全体がパニックから立ち直ろうとしていたのかもしれない。

遅れていた昼食が終わろうとしていた時、また校内放送があり、「昼食が終わったみなさんからクラスごとにまとまって、高校の大講堂に集合して下さい」という指示があった。

併設されている高校に中学の生徒も集合することは、めったに無いことだった。

高校の大講堂では、生徒たちが集まっているにも関わらず本当に静寂そのものだった。
いつもの三分の一程度の生徒しかいないというだけでなく、重苦しく思いつめたような気配が漂い締め付けられるような感覚がしていた。
聖職者である高校校長のトーマス先生は、多くの人々が被災し救援の手を待っていることを話された。
そして、最後に被災し亡くなられた人々の冥福と被災し傷ついた多くの人々の為に祈りが捧げられた。
「父と子と聖霊の御名に依りてアーメン・・・」私も唱和した。
この時、「無事であってください、どうか生きていて下さい、必ず助けに行きます・・・」と彼女の無事を必死で祈っていた。

次に、中学校長の橋本先生から、実務的な話があり、「しばらくの間、ここは救援のための前線基地となります」と言われた。援助物資の搬入と搬出、被災現場への輸送、現場人員間の連絡の中継、ボランティアに参加する生徒の簡単な教育と訓練、いろいろなことが、矢継早に打ち出されて来る。

それと姉妹校の神戸の女子学園に通っている女子生徒たちのうちで被災しなかった者、そして大阪在住者を、当分の間、大阪校で預かることになった事も淡々と語られた。
特に、大学受験目前の高校三年生たちは大変だっただろうと思う。

私は必死でメモっていた・・・
でも、心は西宮の彼女の自宅へ飛んでいたようだった・・・

翌日、朝早く、父の車で学園に送ってもらった。
そして父は、校長の橋本先生に面会を求めたのである。
父は、大地町の祖父から、伝言を頼まれたらしい・・・
「陸上輸送が困難ですから、物資搬送に、うちの漁船を提供します」ということだった。

父と別れて、教室に入った。
登校してくる生徒は、あいかわらず少なく、まだ三分の一程度の状況だった。
教室に入ると親友の大野君の話では、原付免許を持っている高校生たちは、愛車とともに、早朝にライダー部隊として物資をリックに背負って爆音を轟かせて学園を出発したそうである。
おそらく原付自転車、いわゆる「ゲンチャリ」なら交通規制をくぐりぬけて、姉妹校の女子学園にたどり着けるだろうと思われたからであった。


[384] 思い込み 投稿者:A 投稿日:2004/01/14(Wed) 01:05:10

苦しいのはどうして・・・?
悲しいのはどうして・・・?
悔しいのはどうして・・・?

それは、自分の欲求が高すぎるからかなあ・・・?
いったいどこにたどり着いたら、自分が満足できるのかな・・・

言い訳したり、こじつけたりしながら、
いったい何をしたいの・・・?

強がったり
あきらめたり
出来ないと 思いながら
いったい何をしたいの・・・?


[383] brave 投稿者:桜梅桃李 投稿日:2004/01/12(Mon) 14:38:57

もし、生まれ変われるなら・・

もう一度、君に出会いたい

僕に、もうすこし勇気があったら

大切な君を、支えてあげられるのに

いっぱい甘えさせてあげられるのに・・


[382] 未成熟 投稿者:桃華 投稿日:2004/01/11(Sun) 02:14:45

amaetaiyo
arinomamaの私でamaetai

自己主張の多い
短気で生意気な私

そんな
あるがままの私を

uketometehosiiyo


[381] 私の生あるかぎり君を忘れません(1) 投稿者:大林 茂樹(Senegal) 投稿日:2004/01/08(Thu) 15:13:24

1995年1月17日5時46分、
その時、轟音とともに、関西の地は揺れた。
震源地は、淡路島北部(北緯34度36分、東経135度02分)。

そして、死者 6,433名
行方不明者 3名
負傷者 重傷 10,683名
軽傷 33,109名
実に被災者総数 43,792名

住家被害 全壊 104,906棟 (186,175世帯)
半壊 144,274棟 (274,181世帯)
一部破壊 263,702棟
なんと512,882棟もの住宅が被災し、一家団らんの場が奪われた。

被害の数字を書き込んでいる私は・・・
私は、涙が今も溢れてくる。

その数字の一つが私の大切な人と家族だったからだ。

あの日、中学1年の3学期だった私は、既に5時30分に起床し、何時ものとおり通学の準備にかかっていた。
祖母は、父と私と朝食の準備にかかってくれていた。

その時は、母方の祖母にとって病弱な娘である私の母を気遣い串本の実家から来て、年末から年始にかけて当時居住していた大阪市内の父の家に居続けてくれている。

偶然にも時計を見つめた時、「5時46分か・・・・」と思った瞬間だった。
「ゴ〜・・・」という地鳴りがした。

「地震だ!」自室を駆け出し、台所に駆けつけ、祖母と一緒になって、ガスコンロを止めて、祖母の手を引いて夢中で玄関の戸を開けた。

揺れが収まった時、家を眺めると、父はヘルメットをかぶり、母をかばっていた。
ほほえましくもあって、祖母と私は、互いに顔を見合わせて笑った。

程なく、電話が立て続けに親戚たちからかかり、お互いに無事を確認しあったのだが・・・
テレビをつけ、神戸方面が大変だと解った。

余震が続く中、父は車で勤務のため出かけ、私は、電車が無理とわかっていたので、自転車で20分もかけて、当時通っていたカトリック系の私立中学へ駆けつけた。
いつも早朝の部活でにぎわっているはずの学校は、静まり返っていた。

そして、いつもは扉が閉められている教会は開け放たれていて、そこだけはとても明るかったと記憶している。

その時、学校の主導権を握っていたのは、近くの寮にすんでいる聖職者の先生方々で、一般の教職員の方々は交通規制のため、一部しか登校されていなかった。
生徒たちも、徒歩で通学できる近所の子達だけであった。
だからかもしれないのだが、20分もかけて「チャリンコちゃんで汗だくになって来た」私のことは、その後、尾ひれが付き「震災直後、学校の安否を気遣い必死で自転車でかけつけた健気な生徒」として、学園聖伝説の一つになってしまっている。

聖職者の先生方は、登校して来た生徒たちがとてもいとおしく思われたようで、聖なるカトリックの儀式にしか使われない大教室に集め、祝福をしてくれたのだった。
そして、ボランティアの募集が行われ、救援物資をもって、姉妹校である神戸の女子学園に救援に赴くことになった。

その姉妹校とは、体育祭や文化祭でいつも交流している関係で、部活動も交流があり、生徒間でも交流があった。
私も前年の文化祭で友人が出来て、彼女の安否が気がかりだったのである。
当然のように私も、その中に入り神戸に向かったのだが、交通規制にあい失意と焦燥の中、救援物資を満載した学校のマイクロバスは引き返すことになった。
引率の責任者であった聖職者の先生(アメリカ国籍)は、思わず「オーマイゴッド」と静かに嘆き、そして胸に十字架をきっていた・・・

時は、1995年1月17日午後1時30分だった。
淀川大橋手前で、ユーターンし学校へ帰還したのである。

続きます・・・


[381へのレス] 私の生あるかぎり君を忘れません(2) 投稿者:大林 茂樹(Senegal) 投稿日:2004/01/09(Fri) 23:16:50

神戸の姉妹校と連絡が付き、学校の建物自体にはさしたる被害は無かった事が解った。
しかし、近隣の人たちの避難所となり大混乱している様子だった。
また大阪の男子校も含めて阪神地区在住の生徒と教職員で、消息不明者が多かった。

生徒や一般教職員である先生たちは、あせる気持ちを抑えて、聖職者である理事先生たちの緊急会議の結果を待っていた。

そのころには、バイクに乗り、あるいはタクシー、家の車に送られて次々と生徒たちは集まって来ていた。
その日、結局、登校できたのは、三分の一ぐらいの生徒たちだった。

話題は、お互いのクラスメイトや姉妹校の友人たちの安否一色であり、どの顔も暗い。
でも、不思議なことに学校周辺は静けさで満ちていた。

その時、私の担任の先生は、去年の春、大学を卒業して、このカトリック学園に就職した北沢直人という若い人だった。
敬虔なクリスチャンではあったが、聖職者ではなく、一般の大学を出ただけの人である。
教室で待つ私たちに、北沢先生は、理事先生たちの協議の結果を知らせてくれた。
「明日、授業はありません。再開のめどはだいたいですが、一週間後になります」
教室は、シーンとしていた。
それもそのはずで、私のクラスの生徒たちは、四十人学級で、わずか十二人しか登校してきていなかったからだ。
さらにクラス担任の北沢先生は続けた。
「でも、明日も登校して欲しい。大変だか、神戸の姉妹校のみなさんだけでなく被災した多くの人たちを支援するために学校を上げて取り組もうということになりました。」
北沢先生は、何か覚悟を決めながら語り続けた。
「先生も実は、ボランティア活動ははじめてなのです。諸君もまだ中一ですから経験は無いでしょう。だけど人としてやらなければならない時が来てしまいました。」
偶然にも二十四の瞳だったのだ。
そして、その二十四の瞳は、静かに輝き出した。
私は、その時だけ、神戸の女子学園の生徒であった彼女のことを忘れることが出来ていた。
「この学園は、みんなも知っているとおり、カトリックの教団が支援しています。その教団から、救援の人たちが来てくれます。もちろん日本だけでなく外国からも来ていただけるので、通訳が必要になりました。」
北沢先生は、私を見つめながら、尋ねてきた。
「大林、君は帰国子女だったね」
「はい」
「どこからですか」
「セネガルです」
「だったらフランス語ですね。よかった、フランスの